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024.もしもの話 5
 李塔天は自分が震えているのを感じていた。
 あの、圧倒的なまでのあの男の気迫。
 この手で2度も撃ったのは自分の方なのに、こちらが殺されたような気がした。
 まだ…まだあの獣のような瞳が脳裏から離れない。
 もう、2度と離れないのでは無いかという恐怖。
 僅かな空気の揺れに、やっと気付いて李塔天は足元を向いた。
 斬り付した息子に身を任せ、応急手当を受けている天蓬が真っ直ぐに碧の眼に彼を映している。
 白衣の背に厭に映える赤。
 未だに眼を疑う美貌。
 そしてそのまま、彼は。
 皮肉気に、笑ってみせた。



「…!!」
「父上!」
 瞬時に頭に血が昇った李塔天は脚で彼の顔面を蹴りつけた。
 暴挙に、ナタクが止血布を手にしたまま声を上げる。
 その子供の眼に浮かぶ非難に、李塔天の頭が冷めた。
 ナタクが、主である父に逆らったのは。
 これが初めてだった。  



「…あの男は死んだ」
 自分に言い聞かせるような李塔天の声に、天蓬はナタクの手を丁寧に断ってから顔を上げた。
 傷ついて尚ゾクリとするような美貌に、浮かべているのはやはり皮肉な嘲弄。
 見た目と違って頑固だなあ、とナタクは呆れた。
「銃で撃たれて、しかも爆薬で部屋ごと吹き飛んだはずだ。落ちる先は切り立った峡谷。ヤツは死んだのだ」
 だから、もう怖がる必要は無い、と。
 呟く李塔天の切羽詰った顔を見て、天蓬は今度はふわりと笑った。
 それはあの部屋で見せた。
 信頼に裏付けられた余裕の微笑。
 彼が死ぬなんて事を、少しでも疑ったことの無い笑み。
 彼は、捲簾に『経文を持って来い』と命令した。
 端から彼があそこで死ぬなどと許していない。
 その表情から眼を逸らし、李塔天は行く手にそびえる彼の極秘の城を見つめた。
「…あれが見えるか。ここは下界。西域の天竺と呼ばれる場所だ」
 ナタクの手が丁寧に己の刀傷を治療していくのを感じながら、天蓬はグロテスクに建つその城を見つめた。
「ここは下界で最もマイナスの力の働く所。禁呪を成功させるにはもってこいな地脈だ」
 ふーん。ちょっとだけ興味を持った天蓬はしかし、すぐに目を逸らせて治療を進めるナタクの手を見つめた。
「ありがとう。大丈夫ですよ、。そんな深くないですし」
「…」
 白い背に赤く浮かぶ醜い傷。
 自分でつけたくせに、その醜さが耐えられなくてナタクは俯いた。
「あの状況で貴方が取る行動としてはアレが最適でしたからねー。僕も捲簾も咄嗟に判断出来なかった位ですから」
 おまけにその戦略を誉めまでして、天蓬はにこにこと笑った。
 李塔天には見せない、無害な笑顔。
 俯いたまま、ナタクはその肩に白衣を掛けた。
 そして、その裾を握ったまま、小さい声で呟く。
「…ごめん…」
 立ち上がった天蓬は、聞こえない振りをして城を見たが、裾を握ったナタクの手をギュっと握ってくれた。
 今度は、ナタクも手を振り払わなかった。
「…行くぞ」
「もー、本当迷惑なんですけどねー」
 切れた唇を舐めて、天蓬は乾いた風に瞳を細めた。
 煙草が欲しいな、と唐突に思った。





 そして、天蓬の恋人2人はと言うと。



「…疲れて帰って来たのに、部屋がコレってどーよ」
 厭そうに部屋を見回した捲簾に、焔も顎に手を置いた。
「せめてベットの上は片付けておいて貰いたかったな」
 完全にいつものペースだった。



 とは言え、勿論楽な足取りではない。
 爆風に飛ばされ、凄まじい勢いで落下して行った捲簾は首筋から飾りをもぎ取ると目の前を過ぎるテラスの柵に向けてロープを噴出させ、巻きつけた。
「…ッ!」
 そのまま、ロープが伸びきるまで落ちながら出血に視界が霞みかける。不味いな、と思った途端に何かが自分を支えた。
 至近に見えるのはいつになく真摯な蒼と金の瞳。
 体勢を崩しかけた自分を、飛び出して助けてくれた相棒の様子に、捲簾は笑いかけた。
「オトコマエが台無しだぜ、血だらけじゃねーの」
「滴るのはイイ男と相場が決まってる」
 風の音に声を途切れさせながら焔は真面目な顔で返した。
「…お前でも怪我するんだな、捲簾」
 見て判るだけでも、捲簾の肩と腿に貫通していない銃創が2つ。
 そして、耐火加工をしてある軍服でありながら焦げ跡を残す背中と、びっしりと突き刺さるガラス片。
「その台詞、俺も返したい」
 浅手から深手まで、刀傷の走る焔の身体。撃たれてはいないが銃の擦過傷も見える。
 聞きたいことはお互い山ほどあったが、捲簾は低くうめいた。
「そろそろロープが伸びきるぜ、気合入れろよ」
 言い終わると同時に物凄い負荷が2人の身体にかかる。反動で上方に引っ張られながら、髑髏を握り締めた捲簾の手が耐え切れずに緩んだ。
 失血と激痛で流石の捲簾も限界が近いらしい。その指の上から焔がしっかりと髑髏を握り直す。
 そして、くるりと上体を入れ替えて岸壁に背を向けた。
「…!」
 2人を吊ったロープは重量に大きく振られながら彼らを壁に叩きつける。寸前で捲簾は撃たれていない方の脚を上げて、足の裏で激突を軽減した。
 首を下げて後頭部を防御し、それでも背中を叩きつけられた焔が声を殺す。次の反動は何とか脚で壁を蹴って叩きつけられるのを防ぎ、2人は同時に安堵の域を洩らした。
「ファイト〜」
「…1発」

 気の抜けた捲簾の声に低く笑いながら焔が返す。
「サンキュ」
 捲簾の声が真剣になった。
 壁に叩きつけられるのは己の背のはずだった。
 刺さったガラスが更に深く埋まる事を懸念して、焔が庇ってくれたのだ。
 首飾りの羽根を握りなおすと、2人を下げたままロープが撒き戻る。この強靭なロープも、この小さな飾りの中に強いモーターを内蔵させたのも、勿論天蓬である。全世界共通の宝と成り得る頭脳を持ちながら、自分の趣味にしか使わないヤツだ。そう思いながら捲簾は目を細めた。
「…天蓬と会った」
 捲簾の言葉に、焔は目を見開いた。
「俺らが出てすぐに、攫われたんだろう…あの密閉されていた馬車が怪しい。あれが入ってすぐに警備が緩んだ…それが罠じゃないかと思う」
「天…」
 焔が動揺する気配がする。捲簾は俯いた。
「あいつがそう易々と捕まるとは思わなかったが…今あそこを牛耳っているのは李塔天だ。きっとヤツに何か策が」
「…子供がいたんだ」
 常人であれば気を失いそうな眺望の峡谷でロープ1本に引上げられ、2人は訥々と会話する。
「俺と互角の腕だった。天蓬は優しい。子供に対して非道な真似は出来ないだろう」
「互角!?}
 焔の腕を誰よりも知っている捲簾は息を呑んだ。天蓬が本当に優しいかどうかは異論もあるは、今はそれどころではない。
 互角の腕で、そして子供に手を掛ける事を潔しとしない彼であれば、ここまで傷つく事も理解出来るが。
「…花菱の額紋のガキか?」
 捲簾の眉が寄る。
「…お前も会ったのか?」
「李塔天を『父上』と呼んでいた」
 無表情で天蓬の首に刃を向けた子供。
 そして、真っ赤な…血すら綺麗な天蓬の向こうに見える大きな紫の目。
  


「悪ィ…」


 
 焔を見れずに捲簾は咽喉の奥から声を出した。
「俺は、天蓬が連れ去られるのをただ見てただけだった」
 すぐ前に、その存在が在りながら。
 みすみす奪われた。
「アイツが、その子供に…斬られるのを、見てただけだった」
 びくり、と密着した焔が震える。
 天蓬を、あの鋭い太刀筋を持つ子供が斬ったのか。



「すぐ声を出してたから、軽傷だとは思う。でもな…あそこにいたのがお前だったら、きっとヤツを救ってたんじゃないかと、そう思う」
 その剣で檻を断ち切り。
 天蓬もスイッチを撃つ必要は無く。
 そして、脱出出来たのではないかと。
 焔は吐息をつくと、片手で握っていた大剣の柄で、捲簾の額をコツンと殴った。
「馬鹿言うな」
 天蓬の拉致と負傷に、その精神はきっと、嵐のように乱れてるだろうに。
 彼は、いつもの静かな表情のままだった。
「お前が駄目なら俺も駄目だったろう。俺はお前に全てを任せている。お前の失点を言う資格は俺には無い」
 ロープを握る捲簾の手を、手袋越しに焔は強く握った。
 2人いて、ようやく掴んでいられるロープ。
「相棒とは、そういうものなのだろう?」
 禁忌と疎外され、独りで生きていた焔に、それを教えたのは捲簾だった。
 直視しかねる鋭い光を持つ捲簾の瞳が、焔を捉えてやっと不敵に笑う。
「うわ〜。惚れそう」
「?俺は元からお前に惚れてるが?」
 真顔で首を傾げる焔に、捲簾は爆笑した。
 勝てない男が相棒でいてくれて良かったと思う。
 滅茶苦茶に気が軽くなった。
「で、天蓬は何処へ行ったんだ?」
「ゲート転送したんだけどな。あの規模は地上行きだろう」
「…天蓬のイヤーカフスの電波発信は、下界も範囲内か?」
「ヤツの作った物だぜ。余裕だ」
 低い稼働音をさせたロープは巻取りを続け、もう屋敷の基礎部分が見え始めている。
 捲簾の落ち込んだ気分も同時にゆっくり浮上して行った。
「そうだ。ヤツがまた無茶言ったんだよ。経文持って来いって」
「ふ…可愛いワガママだな
 また焔の思考が何処かへ飛ぶ。
 何処へ行くかも判らずに、そこにどうやって行くかも考えずに、しかも絶体絶命のピンチで、更に経文を持ってたのは当の天蓬だったというのに、あの台詞。
 それを『可愛いワガママ』と本気で表評する基準が不明である。
 確かにとことん天蓬らしいのだが。
「そろそろ到着だな」
 土壁を見つめて捲簾は呟いた。
「お姫様を助けに行くか」
 答えるように捲簾の手の上に重なる焔の手の力が一瞬だけ増すのを感じて、何だか、捲簾にはそれはとても簡単に思えた。 
 


 そして、茂みの中で止血と剣先による弾丸とガラス片の摘出を行い、またその辺りの男の服を奪い取って2人はアジトの1つに戻り。
 お互いの手当てを今度はきっちりと済ませ、天蓬の居場所を知るための受信機を握って、襲撃を受けたホテルに戻ってきて、部屋を見て溜息をついたのが冒頭である。
 部屋はヤケクソのように散らかっていた。ここまで探しても経文は見つからなかったのだろう。李塔天も経文が手に入らなかったと捲簾に言っている。
「…何処に隠したのだろうな、彼は」
 焔がぐるりと部屋を見回す。条件反射で部屋を掃除しそうな勢いだ。天蓬と暮らしている以上『お片付け』は下僕の必須項目であった。
「俺らなら気付くが、ここまで荒らしても李塔天の部下達は見つけられない所…」
 焔は考え込む。何せ壁紙も剥がされ、天井も穴を開けられている。
 裏から忍び込んで良かったなあと捲簾は思った。この賠償金を払わされるのは避けたい。
「経文ってどんな形だっけ」
 首を捻る捲簾に、焔は顎に手を当てる。彼が何かを考える時のお決まりのポーズだ。
「普段は巻物だ。大きさは変化する。時に肩掛けのような形にもらるし、呪が発動すれば四方に広がる」
「巻物ね」
 捲簾はふらりと部屋を抜けた。作り付けのキッチンスペースが叩き切られているのを横目に、隣のドアを開ける。
 小さいトイレだった。 
「あいつ、悪趣味だからなー」
 そのドアは、扉こそ蝶番が外れかけていたが、棚も何も無いので特には何も破壊されていない。
 捲簾は、ひょい、と銀色のトイレットペーパーを切る蓋を上げた。
「…」
「…」
 無言になる2人の前で、トイレットペーパーホルダーに掛けられた禁呪の経典が物悲しげにソコにあった。



「流石だ天蓬…!!常人の常識を華麗に飛び越えるその策略!!」
「…ゲート、開くか」
 感動する焔の前で、捲簾は肩を落として経文を掴み、裏ゲート屋の名前を思い出し始めた。
シホさん本当に焔と捲簾コンビ好きです。