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024.もしもの話 6
 桜貝のような耳に装着したカフスから微弱な電気が流れ、天蓬は流れるように動かしていたフォークを一瞬だけ止めた。
 しっとりとしたザッハ・トルテの食感を楽しみながら眼鏡に手を掛ける。上に押し上げただけのような動作でありながら、片目のレンズが瞬時にレーダーへと切り替わった。
 周囲の人間は勿論気付かない。外側のレンズはただのガラスのままだ。
「…ごちそうさまでしたv」
 にっこりvと天蓬は微笑んでダイニングテーブルの周囲に控える使用人とナタクの思考能力をリセットした。
「…終わり?」
 純真な分、回復の早いナタクが心持ち引き攣りながら言う。はいvと頷いて天蓬は優雅に椅子を引いた。
「お腹一杯です」
 そりゃそうだろうよ。その場の全ての者は思った。
 今日のメニューはスープが濃コーンのポタージュボストンクラムチャウダートマトとレンズ豆オニオングラタン卵とキクラゲの中華風のっぺい汁である。
 それから始まった「ランチ」はメインだけでも牛肉と豚肉と鶏肉と鹿肉が3種類ずつ。鴨と鳩が1種類だった。更に魚のメインも5種類ほどあった。デザートのケーキも6種類である。ホールで。
 天蓬がその女王様振りを完全発揮して注文をつけたのである。下界に密かに降りた李塔天のスタッフは良く答えたと思う。1ヶ月分近い備蓄を空にしたが。
 李塔天は途中で見ているのも辛くなる程お腹が気持ち悪くなりリタイアしたが、彼の要求には最大限従うようにとの言葉を残していた。何と言うか、どれほど無理難題を叶えられたかによって男の格が試されるような存在なのだ天蓬は。
「お風呂にも入ったし、お腹も一杯になりましたし」
 うーん、と伸びをした天蓬は満足げだ。風呂に入り、きちんと手当てをしたが、彼は着替えのシャツも血染めの白衣を脱ぐことも断った。お陰で包帯の下の細い腹が剥き出しになる。
 この傾城の存在に慣れていないスタッフの数人が鼻や下腹部を抑えて蹲った。
 まず、その腹が全く膨らんでない辺りが最大のミステリーだと思うのだが。
 …時間稼ぎは成功したらしい。天蓬は片目のレーダーを確認して思う。そこに光る2点は彼の恋人達だ。ゲートを開かせて降りてきたのだろう。もう近い。
 相変わらず仕事が速いな、と天蓬は口には絶対出さない賞賛をした。もっと口には出さないだろうが、その光点が確かに2つある事に、脱力しそうになる位安堵していた。
 しかし、この時間を稼ぐ為とは言えあれだけの食物を喰い切った辺りが恐ろしい天蓬である。
「…じゃ、父上の所に来て貰って良いかな」
 ナタクが顔を見上げるように窺う。初対面の時の無表情の警戒からは考えられない柔らかさだ。
 だから天蓬も優しく笑い返す。
「良いですよ?」
 白衣のポケットに手を入れて、裾を翻して彼は歩く。
 これが彼の戦闘服だった。



 その部屋は例えて言うならば体育館のように広い面積を持っていた。
 天井が異様に高い。中央にむかって放射状に伸びる道があり、中央は円柱のように高くなっている。螺旋状に円柱を昇る階段があった。  
 そして、その道以外は水に満たされていた。
 微かな電動音と共に開くドアから入って、天蓬は白い床を中央部へと歩きながらその水面を覗いた。ややゲル状に近いとろみを持つ液体である。高濃度の生理食塩水に近いものであろう。
 上から下がるのは太い端子のついたローブ。後方を振り返ると歩いた後には何やら呪が白い床に浮かんでいた。
 天と科学の結合は禁忌。天蓬はポーカーフェイスのまま思う。
 李塔天は天才であろう。
 ここまで禁呪を解読し、作り上げた手腕は賞賛に値する。



 しかし。
 これは、あってはならない物なのだ。



「ようこそ。私の夢の部屋へ」
 その声は上空からした。
 いくつか吊られているリフトの1つに乗った李塔天が、ゆっくりと降りてくる。
「ナタクよ、ここで父の為に進化した存在になってくれ」
 李塔天の細めた目に映されて、ナタクは『御意』と小さく呟いた。
『なにもないところへ』
 それが天蓬を連れ去るナタクの言葉だった。
 ポケットに手を突っ込んだまま、天蓬はリフトを見上げる。
 はっきり言って、彼は禁忌などどうでも良いし、この施設には賞賛すらしている。
 でも、この子供という存在を作ってしまった時点で、李塔天の野望とは相容れないのだ。
「来い。奇跡を見せてやろう」
 李塔天は、リフトの上から彼に手を差し伸べる。
 彼の野望も、夢も、叶う瞬間に、こんな者が隣にいてくれたらそれは無上の幸福だった。
 天蓬は何を考えているか読ませない、ただ綺麗なだけの表情でその手を見つめると、そこに自分の手を重ねた。
 集合を受けたスタッフらが扉から入って、自分の持ち場につく前にそんな2人を羨望の眼差しで見ている。 
 間違いなく、李塔天にとってこの瞬間が幸せのピークだった。



「私が観世音の主催する禁呪の読解プロジェクトに関わった時から、これを夢見ていたのだよ」
 李塔天は上昇するリフトの中でうっとりと下を見下ろす。
 円柱の中央に立つのは幼い姿。
 部屋のあちこちで機械の点検をし、表示される数値を見て回るスタッフ達。
 リフトには時折プラズマが走る。李塔天の手元近くにあるスイッチで電磁柵が生じているのだ。天蓬が逃げようとリフトを乗り越えようとしたら間違いなく気絶する位の電流が流れるだろう。
「それに入る為なら外戚に取り入るのも屈辱では無かった。ヤツの屋敷に研究施設を作っても、ヤツは見に来る事すらなかった。トラップを作っても、ゲートを繋いでもだ。ヤツはただ万人が自分に仕えるものだという根拠の無いポリシーがあるだけだったのだよ」
 あー、いるいるそういうヤツ。心の中で天蓬は相槌を打った。その指はまた、眼鏡のツルを上げている。
「私は読解を進めていき、それを実験して行った。試行錯誤もあったが、実験によって呪を解読出来た事もままあった。そうして自信がついた時、私は息子を神よりも強い存在にしたのだ」
 聡明なナタクは、全てを理解しながら受け入れたのだろう。
 己が禁断の存在に変化する恐怖よりも、きっと父への愛情が勝ったのだ。
「解読は後半を残して中断した。経文も無いが、それはもうどうでも良い。完璧を求めずとも、これで息子は存在を超越する。君の仲間が何を起こそうとも、私には恐れる必要がなくなる。私は最高の力をこの手に収めるのだ!」
「どーでしょうね」
 気の抜けた天蓬の声も、もう李塔天の熱気に水を差すことは出来ない。
李塔天は不敵に笑うと、息を吸った。
 低い真言がその唇から洩れる。呼応するように照明が2・3回瞬いた。 
 李塔天の額の菱紋が鈍い赤に光り…直後眼下から凄まじい咆哮が聞こえた。
 ナタクが蹲っている。その小さい身体からは考えられないような絶叫をあげているのだ、と天蓬は痛ましげに眉を寄せた。
 そのまま、真剣な目で横の男を窺う。悲痛な叫び声を聞きながら心の中でカウントダウンした。
 3…2…1…
「ぐわあああああ!?」
 李塔天が咽喉を掻き毟る。すかさず天蓬は李塔天を押しのけて電磁柵をオフにすると、リフトの枠に便所ゲタを掛けた。
「!待て…」
 李塔天の指は空を切った。ふわり、と尋常ではない身の軽さで飛び出した天蓬は、数メートル離れた別のリフト目掛けて飛び移った。
 ひらり、と白衣が高い天井で翻る。
「経文!」
 凛とした声に、下から巻物が飛んでその手の中に収まる。
「な!!」
 紅く霞んだ視界でそれを見て、李塔天は苦痛も忘れて呆然とした。
 リフトの端に片手を掛け、天蓬は経文を止める紐の端を紅い唇に挟んで引いた。
 ばらり、と流れる経典と共に、その唇から凛然とした呪が流れる。
 ―――真言だった。
「…!」
 空を切った経典が李塔天の全身に撒きつく。その身を縛する経文。
 完全に経文の力を引き出した者のみが行える呪。
「貴様!何故!?」
「…しばらくそうしてなさい。人の身で逆凪の備えもせずに大呪を施そうとするから身体に負担が掛かるんです。呪を経典が吸い取るまでそうしてるんですね」
「こ、殺せ!!」
 思考がショートし、李塔天は咽喉の奥から叫んだ。
「ヤツを殺せ!ナタク!」 
 絶叫を聞きながら天蓬がリフトの端を掴んでいた手を離す。細腕1本で支えていた体は真っ直ぐに落下して行った。
 その落下地点に、2人の研究者が駆け寄った。
 眼を見張るような跳躍力で水面を飛び越え、その間にばさり、と研究着を投げ捨てる。
 翻る黒の軍服とグラデーションの羽織。
 どさり、と男1人受け止めて小揺るぎもせず口端を上げる、長い睫毛の端正な顔立ち。
 そのよく知った腕の力が何だか酷く久しぶりのようで天蓬は唇を噛むように珍しく不器用な微笑を浮かべるとその胸板を叩いた。
 会話は無かった。
「…!!!」
 ギイン、という金属音がその眼前でしても、2人とも表情1つ変えない。
 ナタクが肩で息をしながら、3人に迫っている。
 俯いたまま、凄まじい力で繰り出された斬激を焔が真っ向から受け止めていた。
「天蓬にはもう、一太刀も傷つけん…」
 焔の双眸が完全に本気だった。
 白衣の背に生々しく残る太刀痕。
それが静かな彼を激昂させている。
「焔」
 歌うような天蓬の声に名を呼ばれ、全力で刀を合わせている彼の1部がスコーンと飛んだ
「今のナタクはトランスに近い。不完全な呪に犯されて正常な判断が出来ない上に半分神を超越した力です。ですから…」
 思わせぶりに言葉を切って、天蓬は唇の端を上げた。
「焔。こっちを」
 だからお前、今焔はその超越的なヤツの刀を止めてるんだろうがよ。
 周囲のツッコミを完全に裏切って、焔はくるり、と顔を後ろに向けた。彼の耳には天蓬の言葉は絶対である。
 その前で、捲簾に抱っこされた体勢のまま、天蓬はそれはそれは嫣然と微笑むと、自分の唇にたおやかな指を当て、その指を焔に向かって開くと桃色に染まったような吐息を吹いて見せた。
 

投げキッス。



「ま、頑張って下さい。傷つけないでね」

「ああ、お前の俺への信頼むしろ愛と言い切って良いものを俺は今まさに感じ取ったぞ天蓬!!!任せておけ、この焔お前の為なら鬼神と言えどもこの刀のサビにしてくれよう!おっと案ずるな優しいお前の願いを無下にするような事はしないと誓おう!俺の愛するハニーvよ!出来ることならば俺がお前の騎士となれるように俺に祝福を与えていてくれ!!愛の前には傷害の全てが無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!!」

 凄まじい剣戟の間に洩れ聞こえる声を聞き流して天蓬はよいしょ、と白い床に降り立った。
「あいつ、余裕あるな…」
 遠い眼で相棒を見、捲簾は流れるような動作で銃を抜き放った。
「うわあああ!!」
 照明を下げている金具が撃ち抜かれた為に、大きなライトが派手な水音を立てて落ちる。駆け寄ろうとしていた研究者らが水柱を浴びて慌てて退いた。
 その反対方向から駆け寄った人影に銃を向けて数発撃ち、捲簾はクルクルと銃を回転させた。
「安心しろよ。峰撃ちだ」
 どうやって。
 その横で、力に任せてナタクを弾き飛ばした焔が、横をすり抜けようとした数人の前で腰を落とす。
 刃の動きは、誰にも見えなかったが。
 走り抜けた男らが一斉に躓く。ベルトとボタンとファスナーとパンツのゴムを断ち切られ、肌にはかすり傷すらつけていない男らは顔面から水の中にダイブした。
 オールモザイクな光景である。
「…つまらぬモノを斬ってしまった…」
 呟いて焔は更にナタクの剣を受け止める。
「…時間稼いで下さいね」
 2人の活躍から眼を逸らし、天蓬はそっけなく言い捨てた。
 厚手の軍服の上からですら判る、捲簾のしなやかな筋肉の動きと、焔の舞うような剣捌きには天蓬も眼を奪われてしまう。
 2人とも包帯を巻いているというのに、全くハンデを感じさせない動きだった。
 天蓬の指が印を結ぶ。李塔天の全身に撒きついていた経文がしゅるしゅると天蓬の元に集まって来た。
「歪んだ禁呪は元に戻します。李塔天、貴方は有能だったけれどツメが甘かった」
 ガタリ、と李塔天の乗っているリフトが揺れて下降してくる。節ばった彼の指がリフトの縁を握った。
「お前は…お前は何者なのだ…」
 得体の知れない美貌を見る李塔天の額に脂汗が浮かんでいる。
 綺麗な上に凶悪で強大なモノ。
 それは、やっぱり綺麗に微笑んだ。
「…ナタクの額紋を見たときから判ってました。花菱は禁呪の証。禁呪を注がれた子供であり、感情を残している事からまだ完成はしていないと。だから僕はついて来たんです。最後の、この儀式を失敗させる為に」
 李塔天はどんどん近くなる天蓬を見つめて眼を見開いていた。
 全てがこの男の手の中だったと言うのか。
 花菱が禁忌、だなどと、そんなの研究グループの1部しか知らない情報のはずだ。
 研究グループの、一部…。
「まさか…」
 それは、お互い顔を知らない。
 天蓬の足元で経文がザワリとざわめいている。
「僕はね、後半を特に解読してたんですよ。誤発動してしまった呪の集散方法と、後始末をね」
 李塔天の表情から何かを読んだのか、天蓬は彼の懸念を肯定する。
「ま、まさか…!!アレは身元調査や推薦状や複雑な手続きがいる筈だ!!お前のような犯罪者の愛人が入り込める隙間など…!」
「愛人?」
 天蓬は冷たく、麻薬的な笑みを昇らせた。
「書類を調えるのも、変装も僕の得意技です。禁呪の解読など片手間で出来ますし、僕の横の2人は僕の計画に沿って動く。全ては僕の意思です。貴方は僕が峰不二子だと思ったんでしょうし、まあ実際そうでもあるんですけど…」
 天蓬はそこで言葉を切って、にっこりと笑った。



「僕がルパンです」



 それってタチ悪ィ――――――!!!

 李塔天以下彼らのスタッフは内心絶叫した。
 峰不二子兼ルパン。
 そこの何処に弱点があるのだろうか。



「み、認めん!!」
 李塔天は床に近くなったリフトから飛び降りると転げながら真言を唱えた。
「…ッ、馬鹿!」
 止めようとした天蓬の足元から経文が飛び出す。全身を巻きつけられた李塔天は断末魔のような絶叫を洩らした。
 禁呪に反応し、経文がそれを淘汰したのだ。
「精神を滅ぼされますよ!」
 叫びながら天蓬が全身ミイラのようになった李塔天に駆け寄ろうとする。 
 硬質な床を蹴った天蓬の脚が、何だか突然軽くなった。
 床から上がった便所ゲタが、後方から撃ち出された銃弾に弾き飛ばされ、こんな所すら防弾処理を施されているゲタは破壊もされずに、蠢く李塔天の頭にスッコーンと当たったのだった。
 バタリとミイラは倒れ、経文は用を果たしたと戻る。
 ぺたり、と片方の素足を濡れた床について、天蓬は振り返った。
 捲簾が、もう銃も仕舞って肩を竦めていた。
「殺してやる、って言ったけどさ」
 あの屋敷で、滅多に見せない負の感情に塗れた捲簾の顔を天蓬は思い出した。
 強く健康でマイペースな男の内側に住む破壊神。
 誰よりも本人が奥底に閉じ込めているソレを解き放つのはいつだって天蓬が引き金だった。
「これで済ませておくわ」
 だからこそ、天蓬がいつも通りであれば、捲簾も不敵で剛毅な彼でいられるのだ。
 スタッフらは捲簾1人により大半が倒れ、大半は降伏している。
 そしてまた、鈍い金属音がした。
 ナタクの大剣がもう届かない天井に弾き飛ばされていた。
「終わりだ」
 愛の戦士と化した焔は殆ど息も乱していない。完全にバケモノである。
 ナタクは呆然としたまま、焔に両手を握られていた。
 剣が無ければ、力では焔に叶うわけが無い。
「さ、じゃあちゃっちゃと解呪しちゃいましょうね」
 もう片方のゲタも脱ぎ、天蓬はオヤジ臭く肩を回した。
 ナタクが捕獲できればそれ位、彼にとっては片手間なのであった。



「負の力を1人で受けるのは元々無理なんですよ」
 ナタクが意識を戻した時に1番に聞こえたのは柔らかな音律の声。
 そしてまず見たのは、自分と同じ位の小さな子供の、大きな金目。
「え…」
「この子は、天地に生まれた異質な存在。禁呪によって歪んだ地脈が産み出した、君の片割れ」
「俺の…?」
 ナタクが掠れた声を出すと、その子はにっこりとヒマワリのように笑った。
「禁呪には、かならず陰陽の2つが生じる。それを分離させずにナタク1人に注ごうとしたのが失策なんですよねー」
 蘊蓄を嬉しそうに垂れ流しながら天蓬は経典から出現した子供の頭を撫でる。
「友達になってあげて下さいね」
「友達…」
 そんなもの、自分に出来るとは思わなかった。
「俺に?…でも、俺…」
 自分の罪は良く判っている。
 天帝に歯向かった一族の息子だ。
 天界に戻っても、処刑されるだけだろう。
「今、トモダチなんて出来ても、そいつに悪いだけじゃん」
 俯くナタクの頭に、大きい手が乗り、くしゃり、と撫でた。
「優しいじゃん」
 兄貴じみた笑い方にナタクは真っ赤になって髪を撫で付け直した。
 子供らしい仕草だった。
「まあ、外戚の叛乱を防いだ一族として表彰はされないでしょうけどね。この事件は闇に葬られるでしょうから」
 天蓬は平然と腕を組む。その唇に右から捲簾がタバコを差込み、左の焔が火を点けた。
 煙草を吸う天蓬を見たのは初めてで、ナタクはまじまじとその唇の紫煙を追ってしまった。
「…って、え?」
 そして、そのセリフに反応が遅れた。
「いいですか、貴方は外戚が叛乱を起こしている事を察して至高の天帝の御為に君側の奸を除いた小さな英雄です…」
「天蓬〜vvvv」
 突然背後から起こったメロメロな声が己の父の声だと察するのに、ナタクは時間がかかった。
 シリアスブラックハードボイルドな悪役だった父が満面を蕩けさせて天蓬の細腰にしがみ付いては煙草の火で撃退されている。
「…確かに精神を滅ぼされたって感じ?」
 ナタクは頭を抱えた。
「それでもね、この人を守れるのは貴方だけなんですよ?」
 裸足でしゃがみこんで、天蓬はナタクと視線を合わせる。
 なんだかいい匂いがした。
 バニラのような。
 ナタクは視線を父に向ける。
 禁呪に魅せられてからすっかり笑わなくなってしまった父だった。
 息子の自分が実験体に使われたと、判っていた。
 それでも、それでもやっぱりナタクにとって、この人が唯一の父なのだ。
「俺が、守れるかな」
「その武功を持って、最年少の闘神の称号を誇れば良い」
 突然口を開いた焔の口調も優しい。
「困難はあるだろうが。守るべき大切な者がいれば、そんな事は乗り越えられるだろう」
「あ、良いじゃん闘神。俺達軍には結構コネ効くしよー」
「こっちの小猿ちゃんはそーですねー、金蝉にでも預けますか。今回ので貸し出来ましたから厭とは言わせませんし。権力の傍にいた方がこの子も安全でしょうしね」
 酷いセリフと共に重要なことがトントン決まって行く。無茶で無理で考える暇も与えてくれないようだが、その思考はあくまでも優しい。



 誰も傷つかないように。
 優しい犯罪者達。



 彼らを傷つけた自分達のことを考えてくれる優しい一味。
「どーせ、身についた力だもんな。闘神も格好いいかもな」
 ナタクは立ち上がった。
 自分が実績を積むことで、父もきっと敬意を受けられるのだ。
 それはとても誇らしい未来。
 一緒に立ち上がる、すぐ傍にいる男のはだけた胸板、髑髏の下に、ナタクはトン、と拳を当てた。
「サンキュ」



 その瞬間。
 捲簾は兄貴顔で歯を見せ。
 焔は静かに目を伏せて微笑し。
 天蓬は華やかに咥え煙草で笑った。



 初めての満面のナタクの笑顔は。
 彼らの想像通りに、無邪気なものだった。



 その背後で李塔天が天蓬に抱きつこうと走りより、濡れた床に滑った。
 びたん、と壁についた手が、大きなボタンを押す。
 直後鳴り響く警報音に、3人の大人とナタクは表情を失った。

『緊急事態…当施設はあと10分で完全爆破いたします。総員は速やかに脱出下さい。繰り返します…』

「…お約束だな…」
「何で悪者ってのはみんな自爆装置つけんだよ!!しかも早えよ10分はよ!!」
「ちょっと、その辺の人起こして下さい!逃げますよ!!」
 ナタクは片手で父を掴み。
 その辺のスタッフを蹴飛ばし、数人の襟首を引っつかんで彼らは走り出した。



 何かが吠え立てるような音と共に、城が倒壊する。
 後にここを根城とした大妖怪が、城を復元したときに、地元の者がソレを吠登城と呼んだのは、ここから来ていた。




 砂埃が収まると、天界人達はゆっくり立ち上がった。
「ナタク、あそこの光が見えるか?」
 自分の腰位の背の子供の頭を北に向けさせ、捲簾は囁いた。
「歩いて10分。あれが俺達が降りてきた闇ゲートだ。天界の城下町の外れに着く。上手く紛れろよ」
「え?」
 その口調にナタクは顔を上げた。
 まるで、ここで別れるような口調だった。
「アンタは?」
 捲簾は笑うと、ふと横を向いた。
 ナタクがその視線を追う。砂埃を上げて、1台のジープが接近していた。
 運転席に靡く羽織。
「じゃあな」
 軽い挨拶と共に捲簾の軍ブーツが砂地を蹴る。
 少し離れて佇んでいた白い姿の佳人の腰を抱くようにして、更に走り。
「またね」
 涼やかな声と微笑みが見えたかと思ったら、2人はスピードは緩めているものの停車していないジープに飛び乗った。
「…今更泥棒っぽい去り方するなよな」
 ジープは凄まじい速さで遠ざかる。
「天蓬〜!!」
 残念そうに叫ぶ父に、ナタクはそれでも微笑んで見せた。 
「大丈夫ですよ父上。きっと、また逢えますから」
 何処にいようと。
 彼らはきっと来るだろう。
 彼らの気が向いてくれた時に。
「だから、帰りましょう。父上」
 立ち上がるように促すナタクの手を、誰かがぎゅっと握った。
「帰ろうぜ」
 太陽のように笑う子供が、当たり前のようにナタクの手を掴む。
「一緒にさ」
「そうだな」
 手を握り返して、ナタクはスタッフらに声を掛ける。
 子供の手は凄く暖かくて、何だか嬉しかったけれど、何だか違和感があった。
 それが、あの佳人の手の滑らかさと比べていたのだ、と気付いた瞬間だけ。本当にその瞬間だけ、ナタクは泣きそうになった。

 地上の夕焼けが、なんだかとても逞しく目に映った、そんな日。

(ありがとな)

 大人びた子供の、そんな感謝を、きっと3人はちゃんと受け止めていたと思う。
 




 そしてその3人は。
「で、この3つのペダルのうち、これを踏めば走る事は判った。問題は止まる時はどっちだっていう事だな
「…焔、お前運転今すぐ代われ」
「まあ良い。2つのうちどちらかなのだろう?確立は二分の一。そんな悪い賭けでもあるまい
「…これ、ごーじゅんのトコの子でしょう?苛めないでやって下さいね」
「全てのものに優しいのだな俺の天蓬。博愛と歌われた聖母ですらお前の心の広さには叶うまい。俺のような小人はその愛情の全てに対して醜く嫉妬して行くばかりだ。俺は唯一お前の事しか見れない。不器用だがこれが俺の愛だ…」
「だから運転代われってんだよ」

「うーん、どうせだから長安とか行きたいですねー欲しい本もあるし」
「車降りたら俺らが持つんだろうが。却下」
「ドライブデートと洒落込むのか、望外の幸福だ。断る理由もあるまい」
 また、完全に対象的な2人の答えを平等に無視して、天蓬は前方に光り始める星を見た。
 彼らが持って来ている煙草はせいぜい3箱だ。余り遠出は出来ないだろうが。
 まあ良い。彼らは自由だ。気が向けばいつでも来れる。
「さあ、飛ばすぞ天蓬。星になろう」
テメエは飛ばすことしか出来ねえんだろうが!マジに星になる前にさっさと代われ!!」
 適当な位置で、ゲート屋の作ってくれるゲートに入るまで。
 彼らは何時もとおりの騒がしい小旅行を楽しむことにした。
 3人いれば、怖い事など想像もつかないのである。


 


「何ボーっとしてんだよ。溶けたか金蝉」
 叔母の台詞に、金蝉は目の前にいる相手にやっと目を向けた。
「…うるせーな
 夢見が悪かったのだ。放っておいてくれと金蝉は金糸の髪を掻き上げた。
 何だか眠っても寝た気がしないのだ。怒涛のような夢だった。
 しかもルパンがヤツだった。
 そして、やっぱり李塔天はアレだった。



「天界の、ルパンねえ…」
「はあ?」
 思わず呟いていた独り言を聞かれて、金蝉は赤くなった。
 かなり恥ずかしい独り言だった。
 観世音は何度か目を瞬かせて、それから赤く塗られた唇を愉しげに歪めた。
「オマエにしちゃ耳聡いじゃねーか」
「は?」
 今度は金蝉が眼を丸くする番だった。
 その前で、観世音はコーヒーカップを優雅に持ち上げた。
「やっぱり、本人から聞いたのか?」





 正夢なのだろうか。
 それは天蓬だけが知っている…かもしれない。
これにて終了。ありがとうございましたv