広大な天界のとある場所。
天界軍の駐留地に程近いとある目立たないホテルに3人の逗留客がいた。
2人は部屋の端で酒盛りをし、1人は部屋の真ん中にあるベットに乗って、まだ湿った髪を煩げにかきあげて大きなイヤホンを片耳に当てている。
「…流石天蓬。まるで本業のDJのようだな…」
「…俺はお前の方が流石だと思うけどな」
DJはびしょびしょのままベッドの上でバスローブ1枚で正座しないだろう。捲簾は半眼のまま相棒の杯に酒を注いだ。
「まー、呑めっての!まだ1斗樽2つしか飲んでねえぞ!!」
捲簾はご機嫌で自分の杯を干した。ちなみに人はその杯を洗面器とも呼ぶ。
「…ふっ…チェゲラッチョー…」
焔は色の違う双眼から尋常じゃない光を発していた。きっと『DJ』からなにやら妄想が繋がったのだろう。その妄想の突飛さと瞬発力はオタク姉ちゃんにも劣るまい。
そんな破壊的な『作戦成功酒盛』の中で、天蓬は柳眉をやや寄せた。
「…浮かれてる訳にはいかなそうですね」
呟き、後ろの2人が全く聞いていない事に気付くと、取り敢えず手のイヤホンを投げつけた。
「!」
スコーン、と気持ち良い音がしてどっちかの頭に当たったらしい。少しだけ気が済んで女王体質の天蓬はやっと振り返った。
「金蝉が外戚勢力に拉致されました」
何かを叫ぼうとしていた2人は口を開きかけたまま固まった。
「…拉致?外戚に?」
珍しく捲簾が聞き返す。それだけ予想外ということでもあり、天蓬ははっきり頷いた。
「盗聴しました。ルパン一味に接触される恐れがある為に保護という名目ですが、こちらへの牽制…ある意味人質でしょう。経典との交換条件になりうる人物です」
「…強気に出たな」
瞳を沈ませて焔が片手を口元に掛けた。
天蓬と金蝉の仲は知っている。彼は天蓬の幼馴染であり、焔や捲簾とは違った位置で、しかし天蓬にとってやはり大事な存在なのだ。
「小心者の集団ですからね、観世音の不興を買うことを恐れてそこまではしないと踏んだんですが…甘かったですね」
「…で?外戚ん家?」
言いながら捲簾はすらりと立ち上がった。
酔いを全く感じさせない軍人の立ち姿。
「天蓬は待っているがいい」
焔も隣に立って、手鎖の調子の確認などをしている。
何も言わなくても、この2人はもう金蝉を奪還するつもりだ。
天蓬の為に。
「…」
黙ってしまった天蓬を、2人は笑いながら見つめた。
礼の言えない恋人だ。
焔や捲簾クラスの恋人ですら、両方欲しがるワガママな姫君。
しかし、ソレを2人が受け入れられる位の存在でもある。
その天蓬が幼馴染を放っておける訳が無い。
「早い方が良いだろう」
「頭はちゃんと乾かしとけよ」
口々に言われて、天蓬はつん、とむくれた。
この2人はアホなほど強いので、聡明なはずの天蓬もこういう時に掛ける言葉がいつも浮かばない。
気をつけて、というにもそもそも心配してないし、いってらっしゃいvなんて新婚のような甘いセリフは性に合わないし、お願いします、なんて下手に出るのは更に出来ない、性格に難のある天蓬は取り敢えず。
「…帰りにはペプシ買ってきて下さい。至急」
などと答えて(素直に早く帰って来いって言えばいいのに)と更に苦笑されるのだった。
2人がふらり、とホテルから出た後。
その後姿を確認した集団がこっそりホテルに入っていった事を、彼らは知らない。
「…」
天蓬は、不意に顔を上げた。
真っ白なシャツに、くすんだ紅のネクタイに生成りのパンツ。彼にしては非常に珍しい正当かつ至って布地面積の広い服装に着替え、言いつけ通りにドライヤーを手にした時だった。
空気が帯電している。
危険を何度も潜り抜けた天蓬としてはお馴染みの感覚だ。
何かが自分を狙っている。
稀有な碧の目を伏せて視覚を遮断し、息を止める。
…気配は数種類。10人はいないだろう。近い。
天蓬は戦闘服である白衣を引っ掛けるとベットの上に放りっぱなしだった経典を握った。
どこかに隠す必要があるだろう。
もう片手にまだ握っていたドライヤーを見つめ、天蓬はこの世のものとは思えないほど綺麗に微笑んだ。
「今残ってるのは不二子ちゃん1人だろ?」
「不二子ちゃん言うな。緊張感ねえなお前」
李塔天配下の少佐2人はドアを前にそんな会話をしていた。
「だって本名判んねえだろ」
「そーだけどな」
ボソボソ喋る2人には緊張感が無い。何せ噂ではこの中にいるのは絶世の美人だ。はっきり言って期待大である。
「…でも、結構強いらしいぜ?」
「上等。傷つけなきゃ良いんだろ?」
彼らは李塔天の指示で天蓬を拉致ろうとこうやって出向いていた。
未だルパンは謎の存在であるが、ルパンの弱点は不二子ちゃんっていうのは定説である。
経典を奪うには、人質は金蝉より不二子ちゃんの方が良い。
「…強いったって、こっちは10人近くいるんだぜ。それに…」
外に視線を投げた片割れに、もう1人はうそ寒そうに頷いた。
この作戦だけは失敗出来ないと、李塔天はこちらに最大の支援をした。
「…時間だ。かかれ!」
命令に、傭兵の1人が扉にランチャーを向ける。
ボスッ、という鈍い音と共に扉の一部が破壊され、そこから薄く煙が立ち昇った。
強力な催涙ガス弾である。獲物を眠らせて封じる、天界軍の得意技だ。
「突入!」
充分に時間を置いた後で指令が飛び、数人が蝶番の緩んだ扉を蹴破り…。
「ぎゃあああ!」
叫ぶと飛び上がった。
入口に撒かれた水の中に、ドライヤーが投げられている。
感電した部下が倒れる中、その場の男たちの視界がいきなり暗くなった。
「!?」
部屋の中で天蓬がヘアピンをU字に折り曲げてコンセントに突っ込んだ為にブレーカーが落ちたのだが、そんな事は男達は判らない。
突然暗くなった視界に戸惑っているうちに、バキッ、とかドカッ、とか凄い音が聞こえてくる。
恐慌状態に陥った少佐の耳に、銃に装填する音が聞こえ、更にその背筋を寒くした。
「うわああ!」
パン、という破裂音と共に、何かが少佐の頬を掠った。
無意識にその頬を擦って、暗闇の中に見る。べっとりとついた真っ赤なモノ。
血だ。
振り向いた少佐が目にしたのは、ゆっくりと倒れる同僚の姿。
「おい!しっかりしろ!しっかり…」
抱え上げ、やっと闇に慣れた目に同僚を映し、少佐は固まった。
同僚の額に突き立つ金色のスティック。
非常灯に薄ぼんやりうかぶ『Dior』のロゴ。
半分潰れて額にくっついているその先の真紅。
「口紅…?」
これが先程自分の頬を掠めたものだろうか。
「当たりですv」
楽しげな声と共に少佐は後頭部を蹴り上げられ、あっさりと気絶した。
抱えられていた同僚は取り落とされて後頭部を床に強打し、更に昏睡した。
『そういえばOPで不二子ちゃんが銃に口紅装填して撃つシーンがあったよなあ…』
薄れ行く意識の中、少佐はそう思った。
天蓬は非常階段の扉を開き、2、3段を駆け下りると手すりを支えにして下の階に舞い降りた。
そのまま出口に向かおうとした彼の便所ゲタが急停止する。
ちなみに、何時の時点で彼の靴が便所ゲタになっているのかは天界7不思議だ。
1階の踊り場で、小さい子供がこちらを見上げていた。
「…来てくれる?」
幼い顔立ちは無表情のまま、子供は天蓬に手を差し伸べた。
その表情を見て、天蓬の瞳はその剥き出しになった額に移る。
花弁型の四つ菱。
そこに長い間目を留めていた天蓬は、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「どこへです?」
歌うような流麗な声に、子供はやや目を伏せた。
「何も無い処へ」
「僕を傷つける許可は貰ってますか?」
「傷つけなくっても貴方を攫えるから」
淡々と答える子供に、ふーん、と天蓬は首を傾げた。
「貴方、名前は?」
突然のんびりとした声で聞かれ、子供は顔を上げた。
視界に入るのはとんでもない美貌で、すぐ目を伏せる。
「…何でそんな事聞くんだよ」
「自分を捕らえる人の名前くらい聞いておきたいですもん」
再び顔を上げた子供は不思議そうに美貌を見上げた。
この綺麗な生き物は、ここにいるという事はつまり武器を携帯した傭兵を10人以上倒す程度には強いのだろう。
子供に素直に降るとは思っていなかった。
「…ナタク」
「ナタクですか。僕は天ちゃんって呼んで下さいねv」
カラン、とゲタの音を立てて天蓬はナタクに並ぶと白い手でナタクの手を掴んだ。
「…!」
慌てて振り払うナタクをまた首を傾げて見て、まあいいかと自己完結したようにそのまま歩き出す。
「連行って、腕とるんじゃなかったですっけ」
俺が取られてどうするんだろう、とナタクは思った。
「…来てもいいのか?」
連れ去るようにと命令を受けたにも関わらず、ナタクはそんな風に尋ね、自分の愚問に呆れてしまった。
「良いですよv僕はね、子供は好きなんです」
視覚が存在しているのが信じられないほどに美しい瞳を細めて、にこりと笑った天蓬は連れ去られるとは思えない足取りで玄関に向かった。
「何も無いって、ドライヤーくらいは有りますよね?」
髪乾かさないと煩いんですよ。と彼はのんびり言う。
その存在を故意に考えないようにしながら、ナタクは小さな手をこっそり腰で拭った。
少しひやりとする陶器のような肌の感触は、それでも長く残ったけれど。
そしてその頃。捲簾と焔は大きな屋敷の城門の前で甕の後ろに長身を潜ませていた。
裏門は無い。切り立った崖が自然の要塞になっている。流石にちょっとそこから侵入するのを嫌がった2人は残りの3方の門から入ろうと機会を窺っているのだが。
「…っかー」
門を窺うのを止めて、捲簾は路地の方へ引っ込むと短い頭をガリガリ掻いた。
いつもは大抵の事を楽しむだけの余裕と悪趣味のある捲簾だが、流石に1時間近く潜んでいると飽きてくる。
「飽きた」
「飽きるな」
焔は慣れているので平然と返す。
「…おかしいな」
肩越しにまだ門を視界に収めながら焔が呟いて腕を組んだ。
そのセリフの理由は捲簾にも判る。ずるずると壁をずり落ちて路地裏にしゃがみ込んだまま、捲簾は相棒を見上げた。
「警備に隙がねえな」
「…かなり有能な者を雇ったのだろうか」
「あの外戚がか?口の上手さでしか人間計れねえのに?」
捲簾の口調は軽いが、しかし真理だ。こう見えて彼は洞察力にも優れているのを勿論焔は知っている。
「…とはいえ、今までの奴の動きじゃねえな…菩薩の甥に手を出したり、結構やることが上手いし」
焔は捲簾の呟きを聞きながらただ隙を窺っている。
門番は5人で1組。
しかもどこの組も別の門番の視界に入る。人海戦術は、しかし現在かなり有効だった。
ただ突入するだけならば、彼ら2人に人の壁は役に立たない。取り敢えず目の前の相手から倒していけば良いだけである.恐ろしく乱暴な戦術だが、彼ら程強ければそれ以外は不要だ。
しかし、今回は人質奪還である。
大騒ぎして、人質に何かあったら困る。何せ天蓬が怒るだろう。この世にこの2人が恐れることがあるとすればその1点である。
「乗り込んだとしても、金蝉の頭に銃突きつけられたら俺達終わりだしなあ」
「捲」
低く焔に呼ばれ、捲簾は押さえつけられていたバネが戻るように立ち上がると外を窺った。
音を立てない所か気配さえ揺るがせない辺りが流石である。
2人の、3色の瞳が窺うのは城門に向かう大通り。
今、そこに尋常じゃないスピードで1台の騎馬車が駆け寄った。
門番らが慌てて道を開ける。四方を完全に塞がれたその馬車は、しかし不審なものではないらしく兵らはあっさりと内部に通している。
「…」
その馬車が城内に入ると同時に、見張りがあからさまに緩んだ。
手を振りながら兵士等が大多数屋敷に戻って行く。
「…どう見る?」
「あの馬車が戻るまで警備してたって事?」
言いながら、捲簾は裏路地を回って行く。
「まあ、ここまで来たら後は入って攫って逃げる事だけ考えようぜ」
また、いつ見張りが厳しく戻るかも知れない.
チャンスと見たら迅速に動くのが成功の鍵だ。
薄暗い路地を、影に溶け込むような黒尽くめの服装で捲簾は走る。
それを追う焔は、羽織の裾を風に膨らませながら珍しく声を立てて笑った。
「お前らしい」
「でショ?」
路地の向こうがひらけた。
正門からは外れた、屋敷の城壁が見える。
そこに数人の見張りしかいないのを走りながら確認すると、2人はそのまま突撃して行った.
そして数分後。伸びた男たちを路地に押し込み、捲簾は兵の軍靴をつま先を地面に打ち付けながら履いていた。
焔は頬の辺りを直している。
2人とも倒れた兵の服と顔を借りている。相手の顔に特製のゲルをチューブから絞って貼り、簡易フェイスマスクを造るのは2人とも手馴れた姿だ。
ルパン一味は変装も得意である。
無論ゲルはお手製だ。
「俺が正面から入る」
「では裏から行こう」
それだけ言うと、2人はひらりと城壁に飛び乗り、中へ消えた。
目も合わせないまま別行動を取ったが、彼らは全く相手の心配はしていなかった。
この中に罠が有るとも知らずに。
大手柄の息子を懇ろに労ってから地下へと追い立て、李塔天は最上階へと階段を上った。
馬車から連れ出された者がそこに閉じ込められている。
ルパン一味の弱点を捕獲したのだ。怜悧な満足感と純粋な好奇心が李塔天の顔に浮かんでいた。何たって相手は天界の峰不二子である。
ドアにノックをしようとし、李塔天は止めた。ここでは彼がトップである。遠慮などする必要が無いのだ。
扉を開け…李塔天はそのまま硬直した。
真っ白の、何も無い部屋の中、相手がこちらに目をやった所だった.
透き通るような肌、喰らいつきたくなる唇。僅かな室内等の光りまで反射して白く輝く焦茶の長髪。
白衣を身に纏い、身体のラインを隠していてさえ抱き折りたくなるような細身の肢体。
そしてその身に纏う雰囲気。
目を逸らすことを許さない絶対的な誘惑。
ただ、その瞳を直視して李塔天は急速に頭に上った血液がゆっくり落ちるのを感じた。
全てを拒絶する、冷ややかな碧瞳。
ゆるやかな瞬きの間にも聡明なその瞳は何かを計算している。
「ようこそ」
不敵に微笑んで、李塔天は自分を取り戻した。
捕らわれの姫君は、ポケットに手を突っ込んだまま答えた。
「ペプシあります?」
可愛らしく怯えるようなタマだとは思っていなかったが。
李塔天は思わず額を抑えた。
「…用意させよう」
「どうも」
当然、と言ったように頷いて、傾国の美人は髪を掻き揚げた。
媚態と言い切っても良いだろうその仕草だが、特にそういうつもりではないのだろう。
「何だか1回頼んじゃうとどーしても飲みたくなって。すいませんねえ李塔天」
名を呼ばれ、瞬間李塔天が不穏な殺気を迸らせる。
「…おや。こんな美人に知って頂いているとは光栄だな」
「成る程ね。手口が外戚らしくないと思っていました。謀反ってヤツですか」
すぐに気配を抑える李塔天の前で、天蓬は平然と立っていた
彼の頭脳中のデーターベースは人間には広大すぎる位だ。天界人の大多数の個人名と特徴を覚えていたとしても不思議ではない。
「…盗んだ経典はどこだ?」
「金蝉はどこです?」
急にトーンの変わった李塔天の声に、更に捻じ伏せるように天蓬の声が重なった。
「質問は私からだ。泥棒」
底冷えするような李塔天の瞳を見返して、天蓬はふわりと微笑んだ。
「あの人が先ですよ」
非の打ち所が無い完璧な微笑はそれだからこそ真意が不明だ。
人外の美貌を直視していられず、李塔天は目を逸らせた。
やりにくい相手だ。
「彼に何か有れば菩薩が出てくるからな…今は丁重に迎えている。君らが釣れれば後はお帰り願おう」
ふーん、と口には出さずに天蓬は目を細めた。これで安心出来るほど天蓬は甘くなければ信用もしていない。解放するつもりは李塔天には無いだろう。彼を手元に置いている以上、天蓬は李塔天に決定的に逆らえない。
もうちょっと巻き込まれてもらうけどゴメンねvとあっさり天蓬は脳裏で幼馴染に軽く謝った。
「で。経典だが」
「持って出て来る用意はしませんでしたから。僕の仲間が持ってます」
その答えを予測していたように李塔天は特に落胆の色を見せなかった。
「ならば、次は君を餌にする番だ」
近付く李塔天にも、天蓬は怯む所か無表情のまま見つめ返していた。
「綺麗な顔だな」
顎に手が掛かり、天蓬は顔を仰向かされる。
白い首筋が強調され、緩んだネクタイの隙間から鎖骨と鎖骨の間の窪みがヤケにはっきりと李塔天の目を射る。
「まず貴方が餌の味見ですか?」
至近距離で呆れたように碧の瞳が光る。
「役得というものだろう?」
突き上げるように急速な―――未だかつて覚えの無い欲望の衝動に逆らわず、李塔天は向かいの壁に細身を押し付けた。
ちょっとだけ不満そうに顰められた眉が視界に入るが有無を言わさずに口付ける。
バニラのような香りがその口腔から漂うのを感じ、そこで李塔天の正気は途絶えた。
捲簾は、無闇に広い外戚の屋敷の中で情報に振り回されていた。
「…何でこんな立ち入り禁止区域が多いんだよ。悪い事してないかテメー」
不法侵入者は己のことを完全に棚に上げた挙句に奉って毒づいた。
のんびりとおおらかな警備兵らは全く危機感が無い。外にいた警備兵とは大違いだった。しかし、どちらかというとこれが普段の外戚勢力の私兵である。
『立ち入り禁止区域』といわれれば素直に入らない。中も知らない。お陰で情報を引き出せずに1つ1つ鍵を奪っては中を覗いていたのだ。
早くしないと外の警備兵らに気付かれる危険がある。裸にした挙句にいろんな物で縛り上げて大甕に突っ込んできたので時間は稼げるだろうが。
脳裏にマップを組み立てる。捲簾は己の歩幅を完全に把握していたので頭の平面図は縮尺すらも正確だ。
解放されていた通路を脳裏マップで辿る。やはりここからそう遠くない所に空白部分がある。どこの通路にも面していない、部屋からも繋がっていない結構な面積のスペースが。
「あ、ごめん!」
よろけたフリで前から来る人間の腰のカギを掏る。手先の器用さは生まれつきだ。
「大丈夫か?」
のんびりした相手はそんな風に聞き返しながら気付かずに歩き去った。
捲簾は歩きながら壁を確かめる。
ほどなくしてそこだけ微妙にへこんだ壁と小さな穴が見つかる。簡単すぎる位の扉のカモフラージュだ。
鍵を差し込んで開くと、ゆっくりその壁が横にずれる。
そして見える暗い通路。
その向こうにある壁。
そして、その間に突き立つ鉄格子と、こちらを睨む金髪の長身。
「ビンゴv」
自分に口笛を吹くと、捲簾は軽い足取りで彼に近付いて行った。
「…」
無言で睨みつけてくるその視線は質量さえ感じる位の物で、捲簾には心地良い。
「ま、そんな威嚇すんなって」
見知らぬ兵士の余りの砕けた言い草に、金蝉は訝しげに目を細めた。
兵士はその頬に手を当てる。そのまま服を脱ぐように手を返した下から覗く端正な顔に金蝉は目を見張った。
天蓬の後ろにいつも控えていた片割れ。
「久しぶり。迎えに来たぜ」
手馴れたウインクに、返されたのは切羽詰った叫びだった。
「馬鹿!逃げろ!罠だ!!」
「馬鹿ってテメエ、折角来たのに手ぶらで帰れっかよー!大丈夫だって外戚の兵なんか…」
「外戚じゃねえ!」
斬りつけるような声に、捲簾の瞳がすっと細まった。
「俺を連行したのは李塔天!外戚勢力のクーデターだ!ヤツは手段を選ばない、早く…」
言い終わる前に捲簾は上から響く稼働音に気付いていた。
廊下への距離を測り、逃走を断念する。間に合わなくは無いだろうが、それでは目標は達せられない。
金蝉を奪い返すと、自分はそう天蓬に言ったのだ。
他の誰でもなく、彼に。
天蓬と焔に約束したことは、破るつもりは毛頭無い。
『おかしいな』
相棒の呟きは的を射ていた。
動きがいいのは、きっと李塔天の部下だ。
大多数の兵士らは自分達の上が代わったことすら知らないのだろう。
稼働音が大きくなる。
通路との入口に…捲簾の退路に上部から鉄格子が落ちた。
捲簾にはもう判っている。
金蝉の前にあった鉄格子は彼を閉じ込めていただけではない。
きっと、これは通路を両断する為に存在している格子が片方下りたままだっただけなのだ。
息を呑む金蝉の前で、捲簾は平然と兵士の服の肩に手を置くと一気に破った。
下に着ているのはいつもの漆黒の軍服。
「どいてろ。右の壁に張り付いてな」
指示を出しながらコートの裾を跳ね上げ、薄い部品を取り出して行く。
判らないながらも金蝉は指示に従って壁際に引く。
その間にも捲簾は何かを引き伸ばし、嵌め込み、最終的に肩当てだった金属を嵌め込んだモノを片手に握った。
金蝉はこんな状況ながら気が遠くなる。
「テメエ…何だそりゃ…」
「折りたたみ式ハンドランチャー」
あっさり答えて捲簾は壁に向かってソレを構える。
「但し弾は1発しかねえけど」
何だと、と言おうとした金蝉は耳塞いで伏せろ、という捲簾の言葉に慌てて従った。
ちゃんと会話したことも無いが、こいつはやると言ったら直ぐにやりそうだと本能で認識したらしい。
轟音が屋敷にこだました。
舞い上がった瓦礫にムセた金蝉の前で、用済みのランチャーを投げ捨てると捲簾は首から下がった髑髏のモチーフを握った。
親指と人差し指の間と、小指の外に左右の羽を挟んで髑髏の顔を外に向けると、どこに引き金があったのか髑髏の口からロープが崩れた壁の外に飛んで行った。
何だか色々持ってるヤツである。
唖然としている金蝉の前でロープの端を鉄格子に結びつけると、首飾りを首に掛けなおし、捲簾は腰のベルトを抜いて格子の間から放り投げた。
「そのロープは前の寺院のテラスまで伝わってる。そのベルトを2つ折にしてロープに掛けて滑って行け」
「はあ?」
それはかなりサーカス団な芸ではないだろうか。
「テメエ簡単になあ…」
「勾配は緩やかにしてある。テラスには普通に着地出来る位置にロープが巻きついてる。悪ィな。本当は俺が抱いてやる予定だったんだけどよ」
それも御免だ。
金蝉は不機嫌そうに捲簾を睨んだ。
「…テメエはどーすんだよ」
「俺は何とでもなる」
不機嫌さが心配の裏返しだと判って捲簾はこんな状態ながら笑った。
似たもの同士な幼馴染だ。
「いいから、お前は行け」
不穏な稼働音が再開する。
この危地でも、捲簾は優しい目で笑ってみせた。
「天蓬が、心配で身動き取れなくなるし」
金蝉はそのきつい眼差しでもう1度捲簾を映すと、ベルトをロープに掛けて一気に滑って行った。
彼は自分がいてもプラスになることが全く無いという事をわきまえていた。
あの鉄格子の中、外も見れずに撃ったそのロープが本当にそんな所に渡されているのか。緩まないか。
そういった不安を全く見せなかった辺りが、金蝉の彼に…そして天蓬に対する信頼感だった。
そしてその信頼は裏切られることが無かった。
「何?俺の胸板に見惚れてんの?」
掛けられた言葉に金蝉は我に返った。
ニヤニヤと笑う捲簾に向かって嫌そうに視線を送る。
まさか『あれの口からもロープとか打ち出るんだろうか…』と考えていたとは言える訳が無い。
「金蝉最近変なんだよー!」
悟空は口元を与えられた揚げ菓子でテカテカさせながら金蝉の部屋を久しぶりに訪れた『友達』に報告している。
「うるせーんだよサル」
「変、なんですか?いつもより?」
さらりと大変失礼な事を言って、天蓬は首を傾げた。
「どうしたんです?」
テメエがあの李塔天なんざにむざむざ犯られるのを見たからだ!!!!!!
とは勿論言えず、不機嫌に茶を啜る金蝉を、3人は不思議そうに見ていた。