八戒の様子がおかしい。
ハンドルを握るのも、メチャクチャ飛ばすのも、ほえん、と笑う表情もいつもの八戒なのに。
優しい口調で突き刺すような事を言うのもいつもの事だし、別に遠くを見る訳でも消えそうに微笑む事もない。
この間みたいにあからさまに変な訳ではない。
ただ、その瞳が、その碧が前よりもずっと深く、深くなっていて
吸い込まれそうだ、と悟空は広い後部座席で思うのだ。
外側はいつもと同じ八戒なのに
内側は壊れたままで
そんな状態なのに、平然と外側を作ってしまう八戒がいかにも八戒らしい。
そんな厄介な八戒が、やっぱり凄く好きだから
悟空は珍しく空腹も忘れて八戒を心配してしまう。
それは無言・無表情・無愛想・無一物の破戒僧も同じらしく
山の封印を破る役目を悟空に即決してきた。
仕方なく悟空は全身に経文を書かれ、暴れることとなったのだが
八戒が普通の状態でもきっと、自分がこういう役なんだろうなと、ちょっと空しい小猿なのだった。
だからもう、悟空は最初からこの山が嫌いになった。
三蔵も激山道+激石段で不機嫌がピークに達していて、今にも額の血管が切れそうだ。
八戒は
八戒はどうなのか、2人には判らなかった。
そんな時だった。
「あれ〜?どうしたのお前ら」
その声と風になびく紅い髪に、悟空は金瞳を限界まで見開いた。
三蔵は思わず八戒の後姿を窺った。
「悟浄…」
八戒の唇が動く。でも声にはならなかった。
心構えが無さ過ぎて、全身が総毛立つ。
…目の前にいる。
あと数歩踏み出せば、手が届く。
そんな状態になって、八戒は泣きそうな眼を伏せた。
判らない
どうして
どうして自分はこの人と離れて生きていけるなんて思ったんだろう。
「ああ、あいつは俺様がブッ殺してやったから。帰ろーぜ」
にやり、と悟浄は悟空に笑う。
何でもなかったように。
この数日間など無かったように。
悟浄にとっては、そんなものなのかも知れない。
置いて行かれた者の事なんて、全然考えずにこの男は。
悟空の中で
モヤモヤとしていた心配や不安がブチ切れた。
「うわ!?」
「ふざけんなよテメエ!」
本気で悟空は吠えた。
殴りかかった手を、かろうじて悟浄は避ける。
そんな悟空の気持ちが判るから、八戒は苦笑してしまった。
自分の為に、怒ってくれていると判るのでちょっとくすぐったい。
胸の中の暗黒の穴が、ゆっくりと塞がっていくのが自覚出来た。
悟浄がいたとしても、悲しいことや辛いことはあるだろうけれど
こうやって幸せになるには、空想だけじゃ駄目なのだ。
彼がいなくては。
隣で三蔵が煙草を咥えた。
「手間掛けさせやがって」
「ありがとうございます」
ふわり、と微笑んだその笑顔がやっと元の笑顔だった事を確認して、三蔵は空に向けて煙を吐き出した。
面倒臭かったし、ウザかったし、ムカついたし、しかも痴話喧嘩に近かった気もするが、まあいいか、とそう思ってしまう程の笑顔だった。
三蔵は悟浄より八戒の方に気を取られていた。
八戒は自分の感情に揺さぶられ、制御するのに精一杯だった。
悟空はブチ切れている。
―――――清一色が式神で悟空を作った時と、状況は違いすぎた。
「本当に、ありがとうございます。三蔵」
「…チッ」
晴れやかに八戒が笑うのと、悟空の攻撃に悟浄が舌打ちするのが同時だった。
悟浄が錫杖を召喚する。それを薙ぎ払うまでの動作が速くて、悟空は目を見開いた。
「…危ねーな…っ」
今まで、喧嘩で本気で武器を使ったことなんて無かった。
2人とも喧嘩慣れしている。お互いどこまでが許容範囲かは心得ていたはずだった。
「八戒…っ」
押し殺したような三蔵の声に、悟空はビクリと竦み
ゆっくりと横を見た。
八戒は、悟浄と反対側にいる三蔵を見て笑っていた。
その笑顔越しに悟浄が武器を召喚したのを見て取り、三蔵が息を飲み
三蔵の表情から何かを察知して、八戒は悟浄に向き直った。
いつもの八戒であったなら、絶対にこんな事には成らなかっただろう。
だが、八戒は張詰めていた気持ちを完全に緩めていた。
三蔵が咄嗟に腕を引いたが、下が石段だった為に不安定な足元は揺らぎ
却って上体は不安定になってしまった。
そして、まだ八戒は笑ったまま
悟浄の錫杖で腹を裂かれた。
「八戒ッ!?」
「…いつから俺がニセモノだと気付いた」
低い悟浄の声に3人ともが凍りついた。
ニセモノ?
くすり、と笑ったのは八戒だった。
そんな事も判らない位
自分は彼の存在に舞い上がって。
「八戒…」
「大丈夫。浅手ですよ」
服の上ににじむ血もそのままに、三蔵の腕から抜ける。
自分に向けられた冷たい赤の瞳。
その腕が操る錫杖の冷たい刃先。
悟浄
八戒の服を切り裂き、皮膚を傷つけたその傷は、3年前の腹の傷そのままの軌跡を辿っていた。
清一色に裂かれた、消えない痕。
いっそ、あの時に息絶えていたなら。
「八戒」
「大丈夫です」
三蔵と八戒、2人とも押し殺すような口調だった。
「ありがとうございます。三蔵」
さっきと同じ言葉ながら
その表情が
「ぐっ!」
悟空に跳ね飛ばされた悟浄のニセモノが、八戒の足元に倒れこむ。
「大丈夫ですか」
静かに語り掛けながら、八戒は悟浄の腕を取った。
僅かにしかめられた色気のある紅い瞳と間近で眼が合う。
細く堅い腕の感触も、その体温も手に伝わってくる。
だが、この腕は
かつて雨の夜に自分を抱いていてくれた、あの腕ではないのだ。
みしり、と嫌な音が手の中でした。
悟浄と同じ形の者が苦痛に転がるのを、ぼんやり見つめる。
ニセモノとはいえ、悟浄をその手で傷付けても、八戒には何の実感も起きない。
もう、感情が摩滅してしまったのだろうか。
それとも―――――傷を指先で辿って、八戒は眼を閉じる。
傷付いたのは腹部ではなかった。もっと奥深い、癒えない個所。
そこを傷つけられたら、自分は悟浄すら平気で手にかけるのだろうか。
あの日
大切な教え子が恐怖に固まっているのを刺し殺せたように。
パン、と乾いた音が山道に響いた。
それと同時に散った数珠が八戒の足にパラパラと当たる。
あれは、悟浄じゃない。
悟浄が自分を傷つけた訳じゃない。
自分が悟浄を傷つけた訳じゃない。
判っている。判っているけれども。
「行きましょう」
八戒は石段を上がり始めた。
もう、上がってどうなるとか、彼と会ってどうなるかとか、何も考えられなくなってしまった。
さっきまで、あんなに明瞭に目の前に見えていたはずの答えが、今はどうしても見当たらない。
悟浄に会いたいのか、会いたくないのか。
辛いのか、却って幸せなのか。
そんな事すら、もう判らない。
「リハーサルは済んだ」
ニセモノの頭に風穴を開けた銃を仕舞い、三蔵も石段を上がった。
思った程、鉛弾を撃ち込んだくらいではスッキリしなかった。
「次は本番だ」
その言葉に、悟空が2人を追い抜いて行く。
このまま上がって、八戒がどうなってしまうのか判らないが
このまま帰る事なんど余計に出来やしない。
「八戒」
悟空が振り返った。
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ。本当に掠っただけです」
腹の傷の事だけを八戒は答える。
悟空は少しだけ眉を顰めると、まあいいか、と自己完結したらしく前を向いた。
それにつられるように八戒も前を向く。
門が、微かに見え始めていた。