『遅すぎたよ…悟能』

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存在理由 6
 その日は結局、夜まで雨だった。
 八戒は数時間ではあったが夢も見ずに眠れ、夕飯の支度すらも普通に行った。
 まだ弱ったままの胃は食事を受けつけなかったが、スープをゆっくり飲む八戒の様子に悟空ははしゃぎ、ハリセンで躾られていた。
 どうやら調子が戻ったようだな、と三蔵も思う。何せ口喧嘩出来る位まで復帰しているのだから。



「判ってて行かせた自分に今さら腹立ててやがるのか」
「よくそーゆー事が言えますね貴方は…」
 俯いたまま八戒の目が据わった。
 あの夜、三蔵だって悟浄が行くと判っていた。
 そして、止められなくて震えている八戒のこともどうせ判っていたのだ。
 口喧嘩のネタにされたことで若干重たかったはずの思いが軽くなった気もするが、八戒は放っておく。
「二人や一人でこの任務が遂行できない事ぐらい貴方にだって判るでしょう!!」
「だから頼んでねえっつってんだろうが!!」
 八戒の言葉は正論で、しかし正論でしかなく。
 責を自分一人に被せられたようで、三蔵は舌打ちした。
「ハン、てめえのそのザマで戦力に数えられるとでも思ってんのかよ」
「…ほんっと、イチイチムカつきますね貴方」
 八戒はそれはそれは特別に綺麗に笑った。
 真剣に怖くて、悟空は咄嗟に叫びながら枕を投げた。
 それが最高僧の顔面にクリーンヒットし、更に世紀末なムードが漂ったその時。
 助けは、意外な者達の手によってもたらされた。



「見つけたぞ三蔵一行!!」
 銃声と共に2人の妖怪が倒れる。
 復活した八戒との口論に、キレやすい三蔵の怒りはMAXだった。
 これが相手が悟空や悟浄だったら既に鉛弾を撃ち込んでいた所だが、八戒相手だとどうもそれが出来ない。
 そのフラストレーションが綺麗に敵に向かっていた。
 悟空はこの場の雰囲気が逸れた喜びに安堵しつつ、満面の笑みで敵をなぎ払っている。
 八戒もはっきり『八つ当たり』で気孔を飛ばしていた。
「誰だよ今なら一人足りないから楽勝だとか言った奴!!」
 叫び声がどこからかする。
 己が完全に気晴らしの為に敵を倒しているという自覚は、八戒にもあった。
 実際戦闘になると、部屋に一番被害を与えるのが八戒である。
 三蔵の残す銃痕は小さい。悟空の打撃と悟浄の斬撃は影響半径を任意で変動出来る。
 しかし気孔は一直線にどこまでもすっ飛び、更に弾よりかなりデカイ跡を残す。
 そうなると宿での戦闘はちょっと遠慮しなくてはならず、八戒は体術に切り替えて片っ端からデカイ男を投げ飛ばしていった。
 だが、部屋は狭く、相手は多い。
 倒れた一人の妖怪が八戒の足にしがみつく。
 その男を蹴り飛ばす間に、目の前に来たもう一人がナイフを振りかざした。
「…っぶねえっ、八戒!」
 悟空の如意棒がその男の後頭部を狙い、膝から崩れる男のナイフが八戒の鼻先を掠めてその胸へと突き刺さりかけ…
 咄嗟に八戒はそのナイフを奪うと、その男の胸元に埋めた。



 短いナイフから
 手にダイレクトに伝わる手応え。



 久しぶりだ、と八戒は一番にそう思った。



 そのまま、襲い掛かる妖怪を目にも入れずに切り裂いた。



「…チッ」
 その様子を見て、三蔵は戦闘中ながら舌打ちを漏らした。
 やはり八戒は完全には復活していなかった。
 気配が尋常ではない。
 三蔵が銃口を向ける前に、すぐ前の敵が血飛沫を上げて倒れた
「速え…」
 悟空がつい手を止めて見守る。
 俯いたまま、八戒はコマ落としのように敵の前に立ちはだかった。
「ヒ…」
 悲鳴が途切れ、気管から息の抜ける音となる。
 手首まで埋まる勢いで、八戒は喉を抉った。
「う…」
 残る1人が腰を抜かしたまま床を這う。
「…た、助けて…たすけ…」
「八戒!!」
 三蔵の声にも八戒は反応しなかった。
 涙ながらに哀願する男を、無表情の美貌で見下ろして八戒は無造作にその身体にナイフを突き通した。
 上がる絶叫に、何度もナイフを振り下ろす。
 何度も 何度も



 憎くてやった訳じゃなかった。
 怖かった。



「八戒!」
 悟空の声も届かない。



 こんなにも己に絶望を与える者達が存在する事が怖くて。
 2度と、こんな事にならないように念入りに。
 1人残らず。
 …彼女を助けるよりも、全てを根絶やしにする方が優先だった。



 花喃



 だから、僕は遅くなってしまったんだね。



 振り下ろそうとする腕を掴まれ、八戒はゆっくり後ろを振り返った。
 光を集めた金髪。
 彼を、いつも導いてくれるもの。
「…もう、死んでんだよ」
 その声に強張った右手から力が抜けた。
 ナイフが床に転がる。
「…必要ねーだろ。八戒」



 八戒と呼ばれた。
 悟能ではない。
 ないはずなのに。
 己は全く進歩が無い。
 何も変われてなど、いないのだ。



「離して、下さい」
 酷く掠れた八戒の声。
「貴方の手が、汚れてしまう」
「今更だろ」
 言い捨てた三蔵に首を横に振って、手を振り払った。
 法衣の白に、血の染みが出来る。
 こんなにも綺麗な人を汚す己の両手を見つめ
 真っ赤に染まっているのに、息を呑んだ。



 ―――――雨が降っている。



「僕は…僕はまた」
「八戒、こいつらは俺達の敵だ。お前が殺らねえんなら俺が殺るだけだ」
 三蔵の低い声にただかぶりを振る。



 雨が降っている。
 己は血に染まって、そう、名を変えた位じゃ消えない罪を背負ってて。
 花喃は目の前で死んでしまった。
 助けに行ったつもりで、自分が殺した。



「ね、八戒、こいつら捨てて、今日は俺の部屋で寝ようぜ。で、明日はさ、悟浄を見つけに戻ろう、八戒…な?」
 悟空が八戒の背中に抱きつく。
 それでも八戒は自分の両手しか見ていない。
「…駄目です、悟空」
「え?」
 返ると思っていなかった返事に、悟空は目を見開いた。
「僕が行ったら、今度はあの人も死んでしまうかもしれない」
 震える声だった。



 己の腹の、禁忌の子供ごと刺し貫いた花喃。
 あんな風に、悟浄も失うかもしれない。
 その髪に酷く似合う流血が、ゆっくり広がってゆくのを
 また、自分はすぐ近くで見ることになるかも知れない。



 もう耐えられない。
 あんな思いは思い出すことさえ出来ないのに。



 ゆっくりと広がる鮮血



 その中心に、悟浄がいる。



「馬鹿が…奴がそんなにか弱いタマかよ」
 三蔵は吐き捨てるが、八戒はそれを聞かない。
 八戒は理性で考えている訳では無いのだ。
 人の中で最も強い―――――恐怖、という感情。



 雨が降っている。
 窓に叩きつける音がする。
 鼻をつく血臭。
 手を汚す、ぬめる赤。
 叫びたいのに、声が出ない。



 何故生き長らえているのだろう。
 己の家族を守っただけの街の人々を殺し
 大切だった教え子の、敬愛を向けてくれていた親を殺し
 その教え子まで殺し
 城に暮らしていただけだった妖怪達も皆殺しにし
 その掌に最愛の姉の血まで受けて
 人ならぬ者にまで変化までして。
 ――――どうして大切な者なんて作れて、幸せに暮らしてなんていられるだろう。



 悟浄



「おい」
 床に座り込んだ八戒の胸元を、真正面から三蔵が掴み上げた。
「テメエあのクソエロ河童を、テメエんとこの姉貴と一緒にしてんじゃねーよ」
 低い、耳に良く通る声。
 何も見たくないのに、それでも目に入る煌めく金髪と眇めた紫暗の瞳。
 ああ、綺麗だなと八戒は思った。
 この人は魂もその入れ物も、他の人とは全く違う位綺麗だ。
 ついた膝がゆっくりと血に染まっていっても
 この人は染まらない。



「もう、イヤです」
 掴まれながら、八戒は目を閉じた。
「もう、目の前で大切な人が死んでいくのを見たくない」
 ――――守れなかった。
 三蔵の片目が強く軋む。
 ああ、そうなのか、と彼は納得した。
 八戒は、己と同じなのだと。
 雨の夜、血の匂いの中に救えなかった己への憎悪と、理不尽な運命に対する怒りと、大切な人への執着を今も引きずっている。
「八戒、悟浄のヤツは殺したって死なねえよ?」
 悟空は困ったように後ろから八戒の顔色を窺った。
 そうではないのだ。
「強くたって、それでもいつか人は死ぬ」
 抑揚を欠いた三蔵の言葉に、金と碧の視線が刺さった。
「大事だから。無くせないから。だから守れると思うのは思い上がりだ」
 思い出すのは自分を庇った優しい笑顔。
 自分などより、あの人の方がずっとずっと大事だったというのに。
 だから判る。
 この男の苦しみを、きっと三蔵は他の2人より実感出来る。
 だが
 傷を舐め合うつもりは、この最高僧には更々ない。



「てめえは、死ぬ悟浄が見たくねえーんだろ」
 ビクリ、と碧の目が怯えた。
「ヤツがてめえの目の前で、ボロボロになって血反吐はいて死ぬのを見たくねーんだろ、だから逃げんのかてめえは!!死ぬなら知らないうちに目に入らない所で死ねって事か!?」
「そんな事言ってません!」
「言ってんだろうが!!」
 怒声が飛んだ。
「てめえが血塗れなのは今に始まった事じゃねえ、ヤツだって判ってんだろ、てめえが雨の夜にどうなってもヤツは付いてたんだろうが!今更奇麗事で突き放す気かよ!」
 八戒の表情が子供のように揺れた。
 悟空はじっと三蔵を見つめている。


 悟空だって、ずっと三蔵に付いて来た。
 居心地の悪い寺院の中で、それでも三蔵の傍にいた。


「てめえの事だ。てめえで選べ」
 襟元を掴んだ手を離し、立ち上がった三蔵は尊大に八戒を見下ろした。
「このまま西に行って、ヤツの生死を見ずにいつまでも平和に暮らしてるんだろうと夢見て生きるのと、ヤツを迎えに行って、いつか自分の前で血塗れで死ぬのを見るのとだ」
 …楽なのは、迷わず前者だと八戒は思う。
 もう、疲れたのだ。
 傷つくのは、もう嫌だ。
 現実に何があろうと、夢の中では悟浄はずっと幸せに笑ってくれる。
 それなら



『大丈夫』
 不意に、悟浄の声を思い出した。



『大丈夫。俺がいる。ここにいるから』
 雨の夜、その長い腕の中に抱いて、心音だけが耳に入るようにしてくれて。
 もう片方の耳に、そう吹き込んだ、声。
『離して下さい悟浄。血が…血が付くから』
 両手に浮かぶ幻影の真紅に抵抗しても、その手を傷の走る己の頬に押し付けて見せた。
『別に?俺だって血塗れだし。この髪も目も生まれつき血に染まってる。
 抵抗出来ない程に強く抱き締められ、その力強さに身を委ねて目を閉じた。
『オマエが血塗れだってのも知ってる。もう判ってっから、だから良いじゃん』



『血塗れだって、抱いててやるから』



「…戻ります」
 床に両手を付き、八戒は掠れた声を出した。
 悟浄は、八戒を丸ごと受け入れてくれた。
 彼から目を逸らさずに、全てを抱き締めてくれた。
 花喃は姉弟だったが為に、より純粋でなければいけなかった愛情が踏みにじられた事を認められずに、現実から逃避したけれど。
 悟浄ならきっと全てを受け入れるだろう。
 きっと、彼なら自分がボロくずのように死んでも、目を逸らさずに最後まで抱いていてくれるだろう。
 だから。



「戻ります…見届ける為に」
 顔を上げた八戒を寂しそうに見て、悟空は細い首筋に顔を埋めた。
 八戒は泣いてない。
 涙なんて出ていないけれど、その瞳は普通の宝石よりも砕けた宝石のほうがより煌めくような
 そんな色で輝いていて。
「そしてもう、今度こそ…1人残りたくない」
 また、残されたら
 すぐにこんな世界から逃げられるように、傍にいる。
「俺だって2度も死人を生き返らせるのは御免だ」
 三蔵はそれだけを告げると、さっさと踵を返して部屋を出る。
 その金色の髪が視界から消えてしまうのを見て、悟空は小さく呟いた。
「…八戒…」
「…すみませんね、悟空」
 八戒が、首の横にある癖の強い髪をポフポフと撫でると、首に回った腕に力が入った。
「俺達がいても、やっぱり駄目?」
 問いながら、もう悟空は答えを知っている。
 自分達では、駄目なのだ。
「うーん、きっとですね、僕と悟浄がいなくなったら、三蔵も寂しがると思うんですよ。悟空は慰めてあげて下さいね」
 寂しがるかなあ、と悟空は思ったが、取り敢えず頷いた。
「俺、三蔵守るから」
 きっぱりと言った、言葉。
 守りきる、という言葉を信じていない八戒ですら、嘲弄ではなく微笑んでしまうような表情。
「俺、ずっと1人で閉じ込められてて、誰も来なかったから、俺のこと知ってるヤツなんてきっといないって思ってた。…でも、三蔵はずっと俺の声を聞いていたんだ」
 誰にも知られなければ、『自分』なんて意味が無い。
 そんな中、声を掛けてくれた人。
 手を差し伸べてくれた人。
「だから、三蔵は俺が守る」
 はっきり口にして、悟空はまたぎゅっと八戒にしがみついた。
「で、あのアホエロエロ河童が長生きすりゃ、八戒も長生きすんだよなッ。それで良いじゃん」
「…そおですね」
 八戒は微笑んだ。
 先の事はどうなっても。
 足元がおぼつかなくても。
「今夜の結論はそれにしましょう」
 言って、両手を傍のシーツで拭う。
 こうやって生きてきたのだ。



「…ここの掃除は誰がするんでしょうねえ」
 ほわん、と八戒は他人事のように笑った。
まだまだ堕ちますよ八戒(嬉しそうだな私)しかし他の話とのギャップが…