『雨の夜は苦手なんですよ、僕も』

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存在理由 4
 確かに奴はそう言ったが。
 それはいささか控えめではないかと三蔵は思う。
 上から下までびしょ濡れな男は、細身ながらガタイはデカイ。
 床に水溜りを作りながら悟空と2人で服を剥ぎ取り、ありったけのタオルと毛布で包んでも、水と同程度ではないかと思うほど下がりきった体温は、なかなか元に戻らなかった。
 そのうちに面倒臭くなった三蔵はベットサイドで煙草をふかし、甲斐甲斐しく身体を擦る悟空を眺めるだけになった。



 悟空は何やら話し掛け続けているが、八戒の視線は窓に向いたままだ。



 ふう、と息をついて三蔵は窓辺に寄ると、音を立ててカーテンを閉めた。
「オイ」
 呼んでいるのに反応を示さない相手に、秀麗なこめかみに怒張が浮く。
 タバコでも押し付けてやろうか、と少しだけ考えて止めた。
 そんな事をしたって、このキレーな顔はちっとも動かないだろう。
 それどころか目に見える傷に喜びそうで、そんなマゾヒスティックな満足を与えてやる位つまらないものはないと三蔵は思う。
「何であんな所突っ立ってやがった」
 八戒の表情は動かない。



 不意に三蔵は思い出した。もう2年以上前だ。
 所用で街に出、ブラブラしていた悟浄につかまって2人で飲んだことがあった。
 その時早いピッチで杯を空にしていた悟浄は、店に入ってきた客が傘を畳んでいたのを目にして赤い髪を散らす勢いで立ち上がったものだった。
『悪ィ、帰るわ』
 上着を引っ掴んで外を見るその表情が、あからさまに強張っていて三蔵の片眉を顰めさせた。
『突然だな』
『雨はマズイんだよアイツ…じゃ、またな』
 言い様、ポケットから紙幣を取り出してテーブルに置き、悟浄は器用にテーブルの間をすり抜けてしなやかに店から飛び出した。
 意味ありげな視線を向けていた女性達を眼中にも入れていなかった。
 珍しいな、とその時は特に考えることも無くそれで済ませていたが。
 きっとあの頃から八戒は雨が降ると不安定になっていたのだろう。
 こうやって外にフラフラ出て行った事もあったに違いない。
 その度に悟浄はそうやって店からすっ飛んで
 あの勢いのまま近いとはとても言えない自分の家まで勢いを落とさず走って
 そのまま家に連れ戻していたのだろう。
 はっきり言って奴は過保護だ。
 一晩中、ずっと付き添う位のことは平気でするだろうし。
 ベタベタするのが大好きな奴でもあったから
 その間中、ずっとひっきりなしにベタベタしてたのだろう。



 …少し頭痛がした。



「奴が」
 三蔵は小さく呟いて、八戒の動かない表情と
 それを抱き締めている悟空を見据える。



 感情が溢れすぎて、容れ物の方が壊れてしまったかのような無表情の八戒。
 そんな表情は、この自分が手を下して殺した『悟能』だけで充分だ。



「悟浄が迎えに来ると思ったか」



 ムカつく事に、八戒は『悟浄』の名に反応した。
 色を完全に失った唇を、微かに上げる。
 そのまま、呑み込まれそうな昏い緑の目で、どこか淫らに笑った。
 …自嘲。
 それにゾクリと煽られて、三蔵の眉根が険しく寄った。
 高い襟と長い袖にいつも潔癖に覆われている、焼けない肌はぬめるように青白く、壊れ行く八戒は妖しく美しい。
 だが
 三蔵が連れて行く『猪八戒』はこういう奴ではない。



「雨が上がったら立つ」
 悟空がその声に反応した。
 息を呑むような金瞳に一睨みくれてやり、三蔵は続ける。
「足手まといは必要ねえんだよ。雨の度にこんなになる奴連れて歩けるか」
 びくり、と肩を震わせ、それでも悟空は黙ったまま三蔵を見上げる。
『八戒を置いて行くのか』
『こんな状態で』
 そうやってうるさく騒ぎ立てるのがいつもの悟空のくせに
 こうやって全ての信頼を無言に込められては、三蔵も舌打ちするしかない。
「あのバ河童にコイツの面倒見させてからじゃねえと、眠れもしねえ」
「…じゃっ、悟浄迎えに行くんだっ!」
 ばっ、と悟空は立ち上がった。
「やたっ!八戒、悟浄のトコ行こうな!もお俺絶対あのエロ頭ぶん殴ってやっから!!」
 拳を握り締めて、悟空は満面の笑みを浮かべる。
 相変わらず八戒は聞いているかどうか判らないが。
 きっと朝になれば少しはマシになるだろう。
 三蔵は窓辺の灰皿を見て
 そこの煙草がほとんど灰になってしまっているのを確認すると、八つ当たりにねじ消して。
 新しい煙草に火をつけると、大きく吐いた。



『八戒』を生んだのは自分だから。
 もう面倒掛けられている事でもあるし。
 今更それに追加があったとしても、まあ少し位仕方ないかと思うのだ。
 ただ、こんな厄介な奴の面倒を見続けるのは死んでも御免だ。



 大体、面倒見てやるなんて、小うるさい猿一匹で充分だ。



 その猿は八戒に向かって、悟浄のぶちのめし方を身振りを加えて熱弁している。
「俺なら撃ち殺す」
 トントン、と灰皿に灰を落として三蔵は冗談だけだとは思えない口調で答え、
 あのエロゴキブリのにやけた顔面に頭の中で銃弾を4・5発ぶち込んで、カーテンの隙間から外を見た。



 雨は、まだ止まない。
さあ、悟浄回収。でもその前にまだ数幕