『無理を言っちゃ駄目ですよ、悟空』

×
存在理由 3
 八戒の優しい、少し困ったような笑顔と、柔らかな声と、その言葉の内容がギャップありすぎた。
「なんでだろーな…」
 悟空は宿のベットで仰向けに寝転びながら呟いた。
 硬いスプリングがギシギシ鳴ったが、宿をとれただけでも有り難い。
 何せ、辿り着かないかと思ったのだ。
 途中で休憩する予定だったにも関わらず、走り続ける事になってしまった。
 橋の1つが崩れていた為に迂回したのが大きな原因だが、それにしても今日は妙に疲れた。
 …そういえば、と悟空は思う。
 自分や三蔵はジープの中で昼食を摂ったが、ハンドルを握りっぱなしの八戒は何も口にしていないんじゃないだろうか。
 そう思うと少し落ち込んだ。
 悟空は八戒が好きで。
 だから無理をしているのを見ると胸が痛い。
 自分も運転出来たら良いのにと思う。
 そうすれば八戒の苦労を、少しは分けて貰えるだろうか。



 さっきだって、そうだった。



 やっと街に着いて、買出しをしているうちに街のあちこちから漂う良い匂いにつられて、三蔵の法衣を掴んだのは自分だった。
 腹減った!と叫ぶ自分に、三蔵はいつものように嫌な顔をしつつ了解して。
『先に行ってる』
 八戒に声を掛け…しばらく離れて不意に立ち止まった。
『戻るぞ』
 強く引かれた襟元に、その時悟空は酷く怒った。
『何でだよっ!腹減った!!腹っ!』
『八戒があの量の荷物持てるか』
 その時の、後方を振り仰ぐ紫暗の瞳が珍しく慌てているようで。
『1人なんだぞ』
 それを聞いて、悟空は三蔵よりも早く飛び出した。



 買出しをして重くなると、八戒の手から荷物を奪うのは悟浄だった。
 2人で暮らしている時からの、それは自然な流れで。
 だから自分たちは忘れていたのだ。



 八戒が1人だという事。



『八戒ッ!』
 叫んで、地面に置いてあった大きい袋を両手に3つ掴む。
『…どうしました?悟空』
 素で尋ねる八戒に、首を横に振る。
『何でもないッ、宿取ろう!』
『食事に行くんじゃないんですか?』
『後で良いの!』
 少し間が空いて、くすり、と八戒の笑い声がした。
『…優しいですね、悟空』
 その声は。



 その声はいつもの、悟空の大好きな、えへへ、と照れて見上げる時の声だったけれど。
 悟空は振り向けなかった。
 あの、消えそうな綺麗な笑顔だったら、とても見れなくて
 怖くて
 とても振り向けずに、八戒の前で立ち竦んでいた。



『宿が何処かも知らねーくせに歩くんじゃねえよ』
 咥え煙草のまま、三蔵がふらりと人波から現れた。
 先程の動揺に似た様子は全く無くて
 悟空は随分ホッとした。
『宿はどっちだ』
『北の方にまとまっていましたね。4軒位はある筈です』
 地図を頭に叩き込んだ八戒が答える。
 答えてまた、くすり、と笑い声を出した。
『…僕の声、三蔵に聞こえちゃいました?』
 三蔵は真っ直ぐに八戒を見た。
『聞こえる訳ねーだろ』



 ああ、三蔵は八戒が見れるんだな、と思って
 悟空は振り返った。
 八戒は綺麗に苦笑していたけれど
 消えそうではなかった。
『どけ』
 一所懸命、袋の持ち手部分を咥えて持ち上げようとしているジープに言うと、三蔵も袋を2つ手にする。
『すみませんね、最高僧に肉体労働させて』
『フン…この旅自体が肉体労働だろ』
 言い捨てると金髪は北に向く。
 ジープが肩に乗ったのを確認してから、悟空はその後ろをついて歩いた。
 1番最初に見えたのは庭の大きな宿。
 上手いことにシングルが3つ空いていた。
 チェックインしてすぐ雨が降り出し、間一髪だと三蔵は呟いた。



 悟空は、そんな三蔵が誇らしくて、大好きで
 やっぱり凄えなあと思うと、くすぐったい。
 もし、この旅で三蔵が西に進めなくなったら
 自分もすぐに立ち止まる。
 八戒と悟浄もそうじゃないのかな、と思っていた。
 だから、良く判らない。



 今の八戒の気持ちは。



 けれど、さっきの夕食で
 やっぱり八戒はちゃんと食べてなかった。
 だから悟空は思うのだ。
 八戒は全然大丈夫じゃないと。
 笑ってても、普通に会話してても、全然大丈夫じゃない。



 カシャン、と音がした。
 カシャン、カシャン、と鳴っている。
 その音を確認する為に見回し
 悟空は跳ね起きると窓を開いた。
「ジープ!?」
 降り続く雨にたてがみを濡らして、ジープは細く鳴いた。
「どーしたんだよお前、寝てたんじゃねーの?」
 1日中走り続けて
 ぐったりとして食事中に八戒の膝で眠ってしまっていたというのに。
 ジープは悟空の衣の裾を噛んで引っ張る。
「外行くっての?」
「キュイ」
 はっきり言って、あんまり出たくない雨だ。
 でも、ジープがこんな風に引っ張る時は只事じゃない。
「…八戒?」
 低く、小さい声で悟空が洩らした呟きに
 白竜は細い首を持ち上げて、哀しげに鳴いた。
 ごくうはその体を抱き締め、開けた窓から外に飛び出た。
 1階だ。八戒だって平気で窓から出られただろう。
 そうして開かれた窓から、きっとジープも外に出られた。
 隣の八戒の部屋を覗く。
 ざっと見ても、そう広くない部屋だ。電気も点いているので見えない事もない。
 八戒の姿は、ない。
 その向こうの三蔵の部屋に行く前に、ジープに首で方向を示され、悟空は庭の奥へ走った。
「…さみぃ…」
 雨は大粒で、どんどん肌に服をまとわりつかせる。
 悟空はジープをこれ以上消耗させないように抱き締めた。
「ジープ、どっちだよ」
「キューーー」
 赤い目が、木立を見つめて哀しそうに鳴く。
 そちらに目をやって、悟空は凍りついた。



 八戒が居た
 木に片手を当てて
 少し俯いて
 体のラインが浮き出るまで雨に打たれて



「八戒ッ!!」
 悟空は自分でもびっくりする位大きな声で呼んだ。
 八戒は動かない。
 そこに居ないかのように。
「八戒…八戒ッ!」
 走って行って、腕を握って、また竦む。
 生物とは思えない冷たさで
 握っているのに、雨の中、消えてしまいそうで。
「八戒!!」
 叫んでいるのに全く動かない表情が
 凍った瞳が
 もう、戻って来てくれない予感がして。
「八戒ッ!!」
 体を2つ折りにするように、全ての息を名前にして呼ぶ。



「…雨は嫌いです」
 不意に掛けられた言葉に、悟空は水滴を散らして振り仰いだ。
 碧の瞳は、何も見ていなかった。
 少なくとも、ここにいる何も映していないようだった。
「八戒…」
「嫌いだったんですよ、凄く。でも、あの人に助けてもらったのも雨で」
 声音は優しく、やわらかい。
 色を失った唇が動くのを見ていなければ、こんな表情で言っているなんて信じられないくらいに。
 雨がひっきりなしに八戒の頬を濡らす。
 凍り付いて見上げる悟空の金瞳にも落ちる。
「ずいぶん…治ったと思ったのに」
 瞳がゆっくりと閉じられ、かわりに唇の端が微かに…ほんのかすかに上がった。



「悟浄…」



「サル!」
 低い声にビクリ、と悟空は肩を震わせて振り返った。
 雨の中でも見紛わない金糸の髪。
「三蔵」
 その名を呼んで、ようやく呪縛から覚めた気がした。
「三蔵!八戒が、八戒がっ!!」
「うるせえ」
 バシイッ、といい音を立ててハリセンが振り抜かれる。
「い痛ってえな暴力坊主!!」
「うるせえんだよ。何大人しく聞いてんだ阿呆」
 つかつかと三蔵は八戒の側に歩む。
 草履がパシャン、と水溜りを踏んだ。
 今の状況を見ても何も変化の無い八戒を睨みつけると、ぐいっとその襟を掴む。
 引っ張られて、八戒の足元がふらついた。
「ちょっ…三蔵っ」
 ずんずんと三蔵は歩く。
 抵抗せずにふらふらと怪しい足取りで八戒はついて行く。
「あんま乱暴にすんなよ、八戒変なんだ。雨が嫌だって、治ったと思ったって」
 あんな表情で
『悟浄…』と呼んだ。
「だから、あんまり引っ張っちゃ…」
 言ってる側から八戒の足がもつれた。
 急いで悟空がその体を支える。
「だから何だ」
 それでも三蔵の足取りは変わらない。
「こいつがおかしくなって雨ん中ボーっと突っ立ってんだ、さっさと部屋帰って暖めて寝かせりゃ良いだろうが」
 悟空の文句が止まる。
 自分は何をしていたというのか。
 八戒の様子に怯えて、馬鹿みたいに立ち竦むだけだった。
「…うん」
 八戒の体を支え直して、部屋まで急ぐ。
 三蔵の部屋の前を横切った時、窓が開いているのが判った。
 ここから出て来たのだろう。
 悟空の声に何事か察知して。
 そしてその部屋は廊下への扉も細く開かれていた。



 八戒が玄関から外に出たのなら
 三蔵の部屋の前を通る筈だった。



 きっと三蔵は八戒の様子から何事かを予感し、その何事かに気づくように前以て扉を開いておいたのだろう。
「引き上げろ」
 三蔵の言葉に悟空は頷いて、先に窓から八戒の部屋に入ると、八戒の体を引き上げた。
 ジープが心配そうに上空を飛ぶ。
 やっぱり、三蔵は凄いと悟空は思う。
 彼は周到に手を打ち、一番重要なことを判断出来、目を逸らす事無く、そして悟空の声をいつだって聞き取ってくれる。



『悟浄…』



 あの八戒の声は、悟浄には届かないのだろうか



 悟空は唇を噛むと、湯を沸かしに食堂へと飛び出して行った。
オトコマエ炸裂な最高僧。悟浄がしばらく出てこないので心配。38じゃないんですよコレc