『知るか。昼にはここを発つ』

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存在理由 2
 迷い無く言い放たれた言葉に悟空は息を呑んだ。
「…なッ、何だよそれ!?悟浄置いてくつもりかよ!?」
「悟空。昨夜いった筈だ。これ以上拘りのない事で足止めされるのは真っ平だとな」
「だけど!!」
「その上で出ていったのならば、それは奴の個人意思だ。それとも、お前も残るか?」
「三蔵!!」
 悲痛な声を上げて、悟空は大きな金瞳で縋るように八戒を見た。
『何か言ってくれ』と、その素直な瞳に込められた信頼を見て取りながらも八戒は
 宥めるように微笑んだ。
「無理を言っちゃ駄目ですよ、悟空」
「八戒!?」
 信じられない、と目を見開く悟空とそれに微笑みかける自分を、八戒はどこか遠くから見ているような気分になっていた。
「三蔵は仕事ですし」
「八戒!」
「面倒を掛ける訳には、いきませんから」
「はっか…」
 悟浄を必死で庇おうとする悟空がいとおしくて
 そんな風に庇ってもらえる悟浄が誇らしいのに。
 それなのに。 
 どこかで違う感情が。
「さ、2人ともさっさと食べに来て下さいね。今日の道のりはちょっと長いですから、余り遅れると街に着けずに今夜は野宿になります よ?」
 話を切り上げようと笑顔のまま脅して体を起こした八戒の肩布を語空が掴んだ。
「…で、良いのかよ…」
 震えて握り締められた手。
 俯いていた顔を勢い良く上げれば、戦慄する位澄んだ黄金。
「はい?」
「八戒は、それで良いのかよっ!」
 刺し貫く声も。
 射殺すような瞳も。
 妙に心地が良い。
「八戒はッ!悟浄とここで離ればなれになっても別に良いのかよッ!」
「うるせえサル!」
 すぱぱぱぱぱ―――ん!と気持ち良い程の音を立ててハリセンが悟空の横っ面を張り飛ばした。
「い痛って――――――えっ!!」
「うぜえんだよテメエは!―――――八戒!!」
 自分の胸の中心を正確に切り裂いた言葉の余韻に浸っていた八戒は、そんな自虐を許さない紫暗の瞳に我に返った。
「いいから先行ってメシ作ってろ」
 八戒がどんな状態で悟空の言葉を聞いていたか、正確にこの最高僧は見抜いている。
 悟空と引き離そうとするそのセリフに、八戒は大人しく従った。
「…はい。じゃ、すぐ来て下さいね」
 にっこり、と普段通りに微笑んで扉を閉める八戒を、顔を押さえたまま呆然と悟空は見送った。
「八戒、なんで笑えんだろ」
 サルにしては良い質問だ、と三蔵は黙って袂を探り、マルボロとジッポを取り出した。
「なあ、八戒と悟浄って仲良かったよな、何で八戒って悟浄を見捨てられんだろ。三蔵」
「…自分が悟浄を見捨てたなんて思ってねえよ、奴は」
 三蔵はゆっくりとタバコに火を点けた。
「お前な、八戒に何て言わせたいんだ」
「え?」
 床に座ったまま、悟空はきょとんと目だけで三蔵を見た。
 三蔵は眼を合わせない。
「俺が、あの『カミサマ』とか言う奴に関わったら置いて行くってはっきり言ったのに、八戒に『悟浄を探してください』
って言って貰いたいのか」
 悟浄は放って置かれることを承知して出て行った。
 それを止めたい、と思うのは自分だけのエゴなのかと悟空は唇を噛む。
「八戒は、それでいいのかな…」
「良い訳ねーだろ、サル」
「じゃあっ!」
 叫んだ悟空に、やっと三蔵は眼を向けた。
 ヴィスクドールに似た秀麗な顔立ちに、人形に止めて置けない鋭さの瞳。
「奴の結論だ。口を出すな」



 張り詰めた…でも壊れそうな空気だった。
 小さな小さな呼吸は震えていた。
 気配が去っても…悟浄が去っても、ずっとずっとずっと。
 そんなに無理しているのに。



「判ったよ。もう八戒には当んない」
 常人なら怯む三蔵の瞳に真っ向から悟空は視線を向けた。
 でも、その金瞳にはもどかしげな怒りが含まれている。
「だけどっ!俺悟浄置いて行くの反対だかんな!!ずっとずっと反対だかんな!!」
 三蔵は灰皿に灰を落とすと、煙をゆっくりと吸い込んだ。
「…好きにしろ」





「…あ」
 瞬間、痛みが来たと思ったら左親指が切れていて、八戒は碧の瞳でそれを表情1つ変えずに見つめた。
 包丁で指を切るなんて久しく無い事だった。
 ぷっくりと傷から盛り上がる、赤。
 鮮血の赤で思い出すのはもう、1人だけになってしまった。
 彼の目と、髪。



『悟浄とここで離ればなれになっても別に良いのかよッ!』



 悟空の声に、自分はあの時微笑んだ。
 どうだろう。
 このままずっと一緒で。
 ずっとなんて言ったって永遠なんて在り得なくて。
 そしていつか、またあの人のように目の前で失うのと。
 お互いを想ったまま、納得して引き裂かれるのと。
 どっちがまだ傷付かないだろう。
 そんな風に己を可愛がる事しか考えていない自分には
 悟空の真っ直ぐさは持てないのだ。
 全ては自分の為。
 欲望のままに姉を犯し。
 それを奪われた為に妖怪も人間も虐殺して。
 罪の深さに人間でいることすら出来なくなり。
 自分はそんなにも汚いのだから
 だから離れても仕方ない、と
 自虐に見せかけた逃避。



 ポタ、と耳についた水音に顔を上げて窓を見る。
 おかしい程余裕の無い表情がガラスに映っていた。
 …雨は、降っていない。
 視線を落とすと、シンクに自分の血が垂れる音だった。
「八戒、メシ――――――って、これ全部喰ってイイの!?」
 直後背後から掛けられた声に、にこやかに笑って振り返る。
「駄目ですよ語空。お昼の分も入ってますからね」
 言いながら右手でカランを捻り、左手の血を洗い流す。
「見りゃ判るだろーが…」
 不機嫌そうに椅子に座る三蔵が新聞を広げるのを見計らってその前にコーヒーを置く。
 悟空はもう箸を握って頬張っていた。
 いつもと変わらない風景。
 今にも「はよ―――」とか髪を掻き上げながら悟浄が現れそうな。
 そんな事思ってもいない癖に、八戒はそう評する。
「八戒は喰わねーの?」
「僕ですか?」
 タッパーに肉を詰めながら、首だけで八戒は振り返った。
 目に入るのは不思議そうな悟空の大きな瞳と、新聞の向こうから覗く鋭い紫暗。
「一杯作り過ぎちゃいまして。つまみ食いしてたらお腹一杯になっちゃいましたよ」
 三蔵の表情が物騒になるのを八戒は人事のように眺めていた。
 その表情に三蔵が眉間のシワを増やす。
 あからさまな嘘を見破られたきまり悪い微笑ではない。
 開き直った微笑でもない。
 この世界に執着が無いからこの男は時々こうやってただ微笑む。
 悟能という名の時も、そうだった。
「ちゃんと喰いなよ?八戒」
 伺うように悟空が見上げる。
 このサルすら判るのに、と三蔵はコーヒーを口に運んだ。
 厄介なことになりそうだが、一度言った以上悟浄を置いて行くという自分の発言を取り下げるつもりは三蔵には無い。
 少なくとも今の所は。
「そうですね」
 碧の瞳を優しく細めて八戒はもう一度手を洗うと、傷が塞がりそうなのを確認して手を拭きながら窓の外を眺めた。
 雲が広がっている。



 雨が降りそうだった。
壊れ行く兆候の見える八戒とオトコマエな三蔵。