『・・・頼むよ――――――』                                                                         

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存在理由 10
 ボロボロになって、それでも最高僧は前へ進みたがった。
 そのあがき様を、悟浄は止められない。
 三蔵が無謀ともいえる醜態を晒してまで執着しているのは、悟浄のせいで奪われたも同然の物。
 やっぱりあの時、悟空に全てを押し付けて『カミサマ』の所に行って玉砕でもしちまえば良かったかもな、などと思って悟浄はジッポの蓋を弾いた。
 悟浄はネガティブ思考ではない。
 衝動が収まれば、1人で突入しようとするような無茶で・・・そしてそこに逃避しようとする自分を忌避する分別もある。
 そして何よりも。
 あの時の悟空の言葉が。
 あれ以来悟空は何も喋らない。



 ガバッ、と三蔵が跳ね起きた。
 全身を貫く苦痛に一瞬凍りつきつつも、シーツを掴んで耐える。
「さんぞ?」
「・・・取り返す」
「あ、そ」
 声すらマトモに出ていないのに、三蔵は掛けられた毛布を脇にどかせようと震える腕を動かした。
 目の端にそれを映し、しかし悟浄は動かずにジッポの蓋を弄ぶ。



 そういえば八戒がおかしくなった雨の日も、自分はこうして雨の中に立つ八戒を見守っていただけだったな、と遠い日の事を思った



 相手の気が済むまで、待ち続ける。
 それは本当は相手の自主性を尊重する、とか信頼してるとか、そういう事じゃないのかも知れないけれど。
 声を掛けても、止めようとしても、それこそ気が済むまで殴りつづける事を止めなかった母
 それに慣れてしまい、他の手段が判らないだけなのかもしれないけれど。
 ああ、また思考が落ち込んでるな、と悟浄は音を立てて蓋を閉めた。
 理由は何であれ、三蔵が崩れたらベットに運ばないといけない。
 ゾンビのように床を這いずる三蔵のお陰で、悟浄はこの部屋から出れない日々が続いていた。
 ―――――最も、正体を無くしたように昏睡する八戒を見ているよりは、まだ精神的に楽だった。
 全ては自分のせいなんだから。



 あの時、三蔵が危険だと聞いて、己の手を透かすように見つめる八戒の眼差しが脳裏をよぎった。
 大量の失血だけでなく、精神力を使い果たしてもう気孔も出なくなった手は、青白いというよりも灰色がかっていた。
『負けたんですね。僕ら』
 いつもながら、言いにくい事をすっぱり言うその口調。
 だけど
 1度も、自分は八戒の顔を見られなかった。
 彼の視線も――――――1度も感じなかった。



 ガタン、と入り口で音がする。
 あの時と同じシチュエーションで、悟浄は赤の瞳を見開いてそちらを見やり―――――思わず立ち上がった。
「八戒っ!いいからお前は寝てろって言っただろうが!」
 悟浄のほうを見もしないで、八戒はやっと扉にすがるように立っている。
 もがいていた三蔵の昏い瞳が、金の髪越しに八戒に向いた。
 八戒の澄んだ碧の瞳と合う
 動きを止めた三蔵に、ゆっくりと八戒は歩み寄った。
「・・・っ、まだ安静にしろ、八戒!」
 それを後ろから抱き止めて、悟浄は肩口に顔を埋める。
 その身体はじんわりと温かかった。
 発熱している。
「頼むから・・・寝ててくれよ・・・」
 久しぶりに抱き締めた背中は酷く細かった。
 尖った肩の骨が顔に当たって痛いほど、肉が落ちている。
 


 失いそうだ。



 八戒は自分を拘束する男の腕から逃れようと身をよじり、苦痛のうめきと共に床に崩れた。
「八戒!」
「手を出すな」



 久しぶりの凛とした三蔵の声に、悟浄の手が止まった。
 ふらり、と八戒の背中が揺れる。
 立ち上がろうとして立てず、両膝と片手で這うようにして三蔵へと向かったその瞳は三蔵だけを見つめている。
 そして、三蔵もそんな八戒をじっと見守っていた。
 八戒は
 悟浄に声も・・・眼もやらなかった。



 八戒の包帯に包まれた手が、シーツを掴む。
 膝立ちになり、やっと三蔵の腕に触れると本当に―――――本当に嬉しそうに笑った。
 ほわり、と暖かい光が2人の間に灯る。
 そして、すぐに光は消え、八戒の上体は呆気なくベットに倒れこんだ。
 その身体の下から、滅多にない優しい仕草で手を抜き、三蔵は紫暗の瞳を悟浄に向けると高飛車に言い放った。
「連れてってやれ」
 悟浄は動けなかった。
 目前の光景に呑まれてしまったかのように。



 八戒が瀕死なのも、三蔵が半死半生なのも己のせいだが。
 まさか起きた八戒が真っ先に三蔵を癒しに来るとは。
 自分に一瞥もくれないとは、思わなかった。



「何てツラしてんだ」
 三蔵は眼を細めた。
 すっかりいつもの三蔵に見えた。
「テメエが俺にしてる事をコイツにしただけだろうが。嫉妬される覚えはねえな」
「・・・・・・っ」
 図星すぎて、悟浄は頬に血を上らせた。
「うるせーなっ!仲良くて結構だよ!俺がいない間に何があったか知らねーけど?随分と仲良しになったんじゃねエの?」



 八戒は、三蔵しか見ていなかった。



「俺、いない方が良かったんじゃん?」



 返って来たのは、心底呆れたような吐息だった。
「こっち来い」
「は?」
「俺はそっちに行けねーだろ。テメエが来い」
 取り合えず、今はこの最高僧様は這いずるのを止めたようだった。
 納得して悟浄は三蔵の側まで寄った。
「ナ」
 何、という2文字すら言わせて貰えず、悟浄は三蔵に殴られた。



「死ね」
「―――――ッ、何でテメエといいクソ猿といい、死にかけのくせに良いパンチ出すんだよっ!!」
「・・・猿?」
 三蔵の眉が訝しげに寄った。
「・・・まあ、殴るだろうな、ヤツは」
「納得してんじゃねえよ!」
 喚く悟浄を歯牙にもかけず、三蔵は足元の毛布にうずくまるように倒れる八戒に目をやった。
 彼はきっと己を責めているのだろう。
 悟浄を探しに行きたいと我儘を言って巻き込んで、三蔵と悟空に怪我をさせたのだと。
 そう思っているのだろう。



 その方がいい迷惑だ。



「あのさ、三蔵サマ」
「うるせえ」
「ちょっと聞きたいんだけど」
「黙れ、殺すぞ」
「俺ね、ココ戻ってきた時、悟空にお前ら任せてヤツんトコ特攻しようと思ったんだよ」
 三蔵の返事を耳にいれようともせずに、悟浄は咥えたタバコに火をつけた。
 心底嫌そうに美貌を歪め、三蔵は仕方ないなと片手を出した。
 心得て悟浄は自分のハイライトとジッポを投げる。
「胸の穴から煙出るぞ」
「うるせえよ」
 無愛想に返答して、三蔵は久しぶりに煙を吐いた。
 久しぶりな上に、自分のよりキツイタバコは酷く舌を刺した。
「で、あのサルに殴られた訳か。自業自得じゃねえか」
「イヤ、俺もまあ、そー思うんだけど」
 ふー、と煙を吐き出し、悟浄は灰皿にタバコを置くと、毛布に顔を埋めている八戒を後ろから抱き起こした。
 いつもしっかりしていて強く、他人の手など不要な八戒が他愛なく悟浄の腕の中に収まっている。
 元々儚げな風貌の美人だったが、より線が細くなっているようだ。
「それがさ、殴った理由が『俺が死ぬ気で行くから』じゃねーんだって」
 悟空の話となると、三蔵は大人しく視線で悟浄に先を促す。
 その、魂の底まで見据えるような紫暗から目を逸らし、悟浄は腕の中に視線を落とした。
「・・・俺が、死ぬ気で行くくせに、八戒を連れて行かないからって、怒んだよ・・・」
 つい三蔵は吐息をついた。
 あれだけ八戒になつき、その彼が壊れていくのを間近で見た悟空だ。
 その気持ちは判らなくもない。
「『あんな八戒、見たくない』って・・・なあ」
 三蔵に戻した悟浄の瞳は、滅多にない位、恐ろしく真剣だった。
「コイツに何があった?」



 最初に見たのは、皮肉気に笑った深い碧の眼だった。
 それがどうしても気になって、禁煙までして手当てした。
 そこまでしたんだから、完治するまで面倒位見てやろうと思った。
 


 その前に三蔵と悟空が現れて彼は連れて行かれ。
 1人になった部屋に戸惑っているうちに、彼は死んだと聞かされた。
 ―――――いつもいつも、手に入らない者を求めてしまうのは、自分の悪い癖だった。
 失って、自分でも信じられない位愕然として、やっと気付いたのだ。
 自分が、失ってはいけない者を失った事に。



 最初から惹かれた。
 自分と同じ価値観を持つ、静かで大人しくて全てを捨て去った・・・恐ろしい位の情熱を秘めた男。
 喪失感に打ちのめされ、その現実感のないショックがじわじわと実感出来て息が出来なくなった頃。
 彼は名前を変えて帰って来た。
 全て捨てた上に名前まで捨てても、悟浄の所に来てくれた。
 それがどれだけ重要な事か、悟浄は判っていた。



 名前も何も知らないまま、それでもあれだけ惹かれたのだ。
 彼が帰ってきて、悟浄が自覚し、そうして始まった生活は今までの生活とは全く違うものになった。
 お互い手探りで、1人ではないと己に言い聞かせ、相手に伝え。



 自分の腕の中で大人しく抱き締められ、そこに自分がいるというただそれだけの事に震えを止めて安心して微笑む八戒。



 彼に、どれだけ存在を許されただろうか。



「こいつ、又・・・不安定だったのか?」
 赤い髪で表情を半分隠し、悟浄は囁く。



 再会した1年の間がそうだった。
 雨が降れば徘徊し、声が聞こえると言っては手首を切り、己と同じ顔の姉をダブらせては素手でガラスを叩き割った。
 眠る事も食べる事も現実に戻る事も出来ずに、過去と暗闇に向かい合っていた彼を悟浄は丁寧に手当てし、食事を作っては口元に運び、腕の中に抱いて一緒に寝ていた。
 彼がどんな人間でも、その挙句人間ではなくなっても、それでもそんな彼が側に必要なヤツがいる事を、ゆっくりゆっくり教えていった。
 そして八戒は、段々と暗闇に背を向け、こちらに来てくれるようになったのだ。
 ここまで持って行ったのは自分だ、という自負が悟浄にはある。
『要らない存在』の自分が八戒を彼岸から連れ出したのだ。
 それは悟浄の存在意義にもなった。
 それから2年近くが過ぎ、八戒は安定したのだ。



――――安定していたはずだった。



「1つ聞く」
 まだ長いタバコを灰皿で消して、三蔵は低い声で尋ねた。
「お前、コイツに『出て行く』ってちゃんと言ったか?」
「いや」
「コイツと2人で話して決めたか?」
「いや」
 まあ、そうだろうな、と三蔵は思う。
 この2人だ。お互いの事位口にしなくても判るだろう。
 だが。



「どうしてヤツに選ばせた」
 三蔵の言葉の意味が判らず、悟浄は首をひねる。
「『1人で行くから、お前は西に行け』って、どうしてお前は言わなかったんだ」
「・・・そんなの、コイツは言わなくたって判ってるぜ?」
「ああ、そうだろうな。結局八戒はお前の思い通りにした」
 あの夜を覚えている。
 出て行く悟浄の気配を辿って、張り詰めた気を発していた八戒を。
 真っ暗な中、それでも震えている事が判った、あの夜を。



「コイツは、テメエと行かなかったのを自分の判断で選んだ、と思った」
「だから、それは俺の願いだろ」
「んな事はどうでも良いんだよ。コイツがそう考えたんだ」
 2人の視線が八戒に集まる。
「コイツがテメエと離れる選択を自分でした、と思ったんだよ。何故ならコイツは生きる価値もないようなクソ野郎で、一緒にいたらテメエも殺しかねない殺人狂で、それだったら離れた方がテメエの為だし、そうやって考えたらテメエに捨てられんのも当然なヤツだからだ」
 一気に口にして、息をついた三蔵を睨みつけ、つられたように悟浄も吐息をついた。
「・・・コイツってな―――――」
「変わってねーだろ」
「もオ全然」
 自虐的思考に落ちやすい所も。
 己から壊れ行くのも。



「そーいや、雨降ったよな」
 細い身体を抱き締めて、悟浄は呟く。
「・・・酷かった?」
「知るか」
 突き放して、三蔵はすっかり灰だけになった悟浄のタバコを揉み消した。
 火の始末まで人にさせた悟浄は、すっぽりと八戒を抱き、その首筋に顔を埋めるようにしがみ付いている。
 少なくとも自分の目があるというのに、このバカップルは極一方的にイチャついてんじゃねーよ、と三蔵は金の髪をかき回した。
「死んだ方がマシな人間なんざ捨てる程いるんだよ」
 八戒がそうだっただろう。もしかしたら、現在進行形で今でも。
「ただ、それをテメエのエゴで生かしたいんなら、それだけの義務を果たせ」
「・・・全くだよなあ」
 見捨てたつもりでは無かったけれど。
 自分以外にこの死にたがりの面倒を任せてやるつもりは無いから
 これもきっと独占欲だし、それならやっぱり手を離してはいけないのだ。
「・・・2度とゴメンだ」
 ふい、と逸らされた三蔵の紫暗が一瞬酷く暗く見えて、ここ数日の八戒の様子が悟浄にも何となく予測がついた。
 よく似たトラウマを抱える八戒に自分の暗部も見せ付けられながら、弱い所だってあるこの最高僧はそれでも、八戒を引っ張ってくれていたのだろう。
 だから八戒は満身創痍ながら、そんな三蔵を救おうと、こうやって来たのだろう。
「悪イ」
 悟浄は目を伏せて笑った後、八戒を抱えて身軽に立ち上がった。
「こいつには俺がついてるから、お前も休めよ。しばらくこっち来ねえからゾンビ化してねーで寝てろ。何かあったら八戒が心配するからな」
 それは脅しだろうか、と最高僧は思う。
「・・・知らねえよ」
 言いながら、三蔵は毛布を引っ張るとずり落ちるようにベットに横になった。
 経文を取り返すのは、次に起きた時にしようと思う。
 結局は八戒に甘い三蔵であった。
やっと悟浄のフォローが出来たか。58が甘いですねえ。極甘