ほの昏い夜の果て 9
 八戒は排他意識を顔中に出した僧と別れ、そのまま寺院の裏手に回った。
 こんな状態で、皆の前には出られそうになかった。


 まだ、指先が震えている。


 悟浄に名前を叫ばれてから、それはずっと続いていた。


 あんな風に。
 必死で叫ばれたのが自分の名前だと言う事は。
 それだけで八戒の脳を活動停止にしかねない事だった。


 それなのに、悟浄は真っ直ぐ八戒を見た。
 長い睫毛の真紅の瞳が。
 走ったせいで乱れた真紅の髪の間から真っ直ぐ射抜いていて。
 こんな場面でも八戒は悟浄を綺麗だと思った。
 そんな浮ついた気持ちは、直後手首を握られて吹っ飛んだ。


 握られた手が熱くて。
 必死に自分に何かを訴える悟浄の、その縋りつくような様子に狼狽して。
 その手の熱さを、その更に先を求めてしまいそうな自分がいて。
 だから、悟浄の言っている言葉の内容を捉えるのに時間が掛かった。


 そして、その内容が信じられなかった。
 無条件に信じようとする自分も、また信じられなかった。


 駄目だ。
 悟浄は歪んではいけない。
 八戒などに引き摺られてはいけない。
 何でそんな事になったのか。
 どうして悟浄を歪めてしまったのか。

 
 いつもの余裕を根こそぎ払い落とした真剣な顔の悟浄を見ながら、八戒は突然紅の言葉を思い出した。



『優しいから、拒まない』
『俺を喜ばせるための嘘でも』



 自分のために。
 優しい悟浄は歪んでしまったのか。


 そんなの。
 そんな事には耐えられない。


 腕は、無意識に動いた。


 爆発しそうな激情に、呼吸すら不安定になった。
 それなのに、こんな時であればこそ、八戒は冷静な声で僧に応対した。
 何も興味の無い人間には、丁寧に応対出来る。
 悟浄には、感情の起伏が止められないのに。

 
 だから、八戒は目の前の悟浄から逃げて、よりあしらい易い僧の対応をしたのだ。
 悟浄に向き合うのが怖くて。


 いかにも自分勝手な応対だ。
 悟浄がどう思うか、そんな事には頭が回らなかった。


 悟浄のアクションを、自分は黙殺した事になる。


 悟浄は何時の間にか消えていた。
 八戒が悟浄を見ないようにしていたうちに。


 悟浄は、そんな事をされても八戒に対して怒る事も無く黙って消えた。
 卑怯な八戒がその優しさを知る時には、いつだってもう手遅れだ。


 悟浄と、話をしなければいけなかった。
 ちゃんと話して、そして伝えるべきだったのだ。同情で。優しさで歪んでまで傍に来て貰わなくて良いのだと。
 悟浄はまっすぐ八戒に優しさを伝えようとした。
 それなら自分もきちんと返すべきなのだ。それは当たり前の対応だ。


 それは判っているが。


 八戒は裏庭に佇んだまま苦笑した。
 それは判っているが。
 卑怯な八戒は、それでも『これでいい』と自分を甘やかそうとしている。


 悟浄はきっと、八戒の態度を誤解しただろう。でも、結局はその誤解は八戒の都合の良い方向に向かっている。
 八戒が望むのは、真っ直ぐな悟浄だ。
 八戒にほどほどの友情以外持たないような悟浄だ。
 それなら、きっとこのままの方がずっと正しい。
 自分の、薄弱な意志で。自分でも判らないような感情で悟浄に説明して、話し合うよりよっぽど正しく悟浄に伝わるだろう。
 そうなのだ。
 だからこれで良い。


 そんな理屈があるかと八戒は傍の小枝を握り締めた。
 しなやかな太い枝は、八戒の手の中でミシミシと軋む。


 その指は、力を入れているからだけでなく、まだ震えている。

 
 判ってる。
 怖かったのだ。
 もう、期待をさせないで欲しかったのだ。


 これ以上。もう掻き回さないで欲しかった。


 保身を、考えたのだった。






「は〜っか〜いvvv」
 叫んで、悟空は飛びつくように八戒を背中から抱き締めた。
「おっ帰り〜ッ!!!八戒、八戒、俺腹減った!!!」
「テメエはそれだけかクソ猿!!!」
 三蔵の器用なハリセンは、八戒には触れずに悟空だけを八戒の背中から弾き飛ばした。
「いいいってえええ!!!!何だよ!邪魔すんなよ三蔵!!俺久しぶりに八戒に会ったんだから!!」
 地面に尻餅つきながら悟空は唇を尖らせる。紅がそれを見て笑いながら八戒に告げた。
「…好かれてるな」
「…嬉しいと、言っていいか微妙ですねー」
 酷い事を八戒はにこやかに口にする。
「さっさと部屋入れ。猿は退け。八戒だって疲れてんだろ」
 咥えタバコのまま三蔵はそう言う。そうだな、と悟空は八戒から離れて立ち上がった。
「…どうだった?」
 椅子に八戒が腰をおろしたタイミングを見計らって、紅は八戒に尋ねた。
「…皆は、城の者達に騙されてはいないか…?」
 王子の気遣わしげな表情に、八戒は微笑んで首を横に振った。
「僕もそう何日も滞在は出来ませんでしたけれど、城下の妖怪達は城の不穏さをもうずっと前から感じていたようです」
 そうか、と紅は俯き、また爪を噛みそうになって手を下に下ろした。


 八戒を、西方に向かわせたのは三蔵だ。
 禁忌の研究をしていた城がどうなっているか。指導者を失った多数の妖怪達は煽動されていないか。そういった情報を三蔵は欲しがった。
 …と見せかけて、実は誰よりもその情報を欲しがっている紅の為に三蔵は自分から言ったのだと八戒は判っている。紅は三蔵にそんな事を頼める立場では無いからだ。


 そして。
 何も無かったように悟浄を送って部屋に戻って来た八戒の様子を看破し、頭を冷やさせる為に『仕事』という任務を与えて遠くに向かわせたのだと。
 自分の為でもあると八戒には判っている。


 本当に。
 頭が上がらない。


 その最高僧は、薄い唇から煙を吐き出し、尊大に八戒を促した。
「詳しく説明しろ」
「そうですねー。余所者を嫌いそうな土地だったんで、きっと人間が入っても駄目だと思って、妖怪化して入ったんですけど」
 ひょいと投げられたボールが手榴弾だったような顔を、その場の3人はした。
「そのお陰でか随分親切にして頂いて。街に入ってすぐには絡まれたりもしましたけど、ちょっと手合わせしたら相手の方がお金やら情報やら色々面倒見てくれまして。宿まで取ってくれて、随分親切な方々でした」
「…それって…」
「言うな」
 三蔵は悟空を黙らせた。
 紅は冷たい汗を浮かばせながら、取り敢えず沈黙を守った。
「紅も妹も城の中に居る、と街の人間は伝えられているようです。でも、それを信じている者はいませんでした。城下に流れていた噂は…『紅は妹と共に非道な女の手から逃れている。しかしそのうち正当な権利を回復する為に戻って来る』というものです」
「そうか」
 紅はホッとしたように微笑んだ。
 自分を慕う民衆を置いてきた事を、紅は酷く気に掛けていた。
「誰も、貴方を怒ってはいませんでしたよ」
 八戒はそう言って、柔らかい表情を浮かべた。
「みな、貴方を心配していました」 
「そうか…」
 組んだ指をテーブルに置き、紅は目を伏せて微笑んだ。
「…しかし随分と俺達に都合の良い噂が流れてるな」
 半眼の三蔵に、八戒は真っ白な笑みで答えた。
「ええ。僕が流しましたから」
 やっぱりな、と三蔵は脱力した。有能なのは認める。任せた事以上の成果をもたらす事も認めよう。その手段が非常識な所が困る所だが。
「…ところで、爾燕はどうしました?紅の傍に居ないなんて珍しいですね」
 八戒の言葉に、紅は若干頬を染めた。
「そんな事は…」
「爾燕なら悟浄と外行ったよ」


 紅の表情が余りにも可愛らしくて。
 いたずらっぽくそれを見ていた八戒は、悟空の言葉を理解し切れなかった。


「何だかあの兄弟仲良くってさ。最近良く出掛けてるんだよ。もうすぐ2人とも帰ってくるんじゃん?夕飯だし」


「そうですか」
 八戒は微笑んだ。
 微笑む以外に何が出来るのだと思った。
 心の準備が無い。
 けれど、準備していればどうなると言った話では無さそうだった。

 
 八戒の表情をいつものとおり眉間に皺を寄せて見ていた三蔵は、扉口から僧に声を掛けられて、舌打ちすると部屋を足早に出て行った。
 三蔵は権力者だ。こうやってゆったりしている時間は、本来は貴重なのだろう。
 その金糸の髪が扉に消えてから、斜め前に座っていた悟空が八戒を上目遣いに見上げた。
「本当はさ、俺せっかく八戒が遠くから帰って来るんだから、悟浄に知らせてあげようって言ったんだ。でも、三蔵が放っとけって」
 金の眼をひたりと八戒に当てて、悟空は続けた。
「悟浄、何だか最近変で」
「変?」
 八戒は首を傾げた。隣の紅に視線を流す。
 紅も何か思い当たる事があるのだろう。意外そうな顔は見せなかった。
「荒れてるっていうかさ。別にキレやすいって訳じゃねーんだけど、すっげえ冷たい顔してたりしてさ。俺の事も三蔵の事も誰の事も見てないっていうか。スゲエ喧嘩したらしいってこの寺院にまで伝わった位だしさ。俺、それはきっと八戒がいないからだと思って」


 悟空の最後の一言に。
 特に力を込めて居る訳ではない、付け足しのような一言に、余計に八戒は剣先を飲み込んだような錯覚を起こした。


「八戒がいないからどうしようも無いんだよアイツ。だから帰ってくるって教えてやろうって三蔵に言ったのにさ」


 内側から肉を剥がされる錯覚。


「悟浄は駄目だからさ。八戒がいないと」
 悟空は自分の言葉に頷く。
 紅がそれを見て僅かに声を立てて笑った。 
 八戒も微笑みを浮かべた。


 違うのだ。
 違う。


 何が違うかわざと不明確にしたまま、八戒は何度もそう繰り返した。



 悟浄がいないと駄目なのは。
 本当は八戒の方だ。



「悟浄だけではなく、爾燕も喜ぶ。もうそろそろ帰るだろうから、それまで旅の埃を払っておくと良い」
 紅はそう言って、部屋に戻ろうかと八戒を促す。
 それに頷いて、八戒は席を立った。


 シャワーを浴びるのは良い提案だ。


 頭を冷やす必要があった。
 何があっても心が動かないように、氷漬けになるまで冷やす必要が。
アタシ八戒をどんどん酷いヤツにしてませんか。