ほの昏い夜の果て 10
 兄と街をブラついた。
 離れたのがまだ全然子供の頃だったから、こうやって一緒に買い物に行く事は初めてで、何だかくすぐったくって楽しくて、悟浄は最近兄とばかり会っていた。
 今日は、3日前に目をつけていた古着の店に入った。きっと掘り出し物があるだろうと兄とワゴンを漁り、結局古い以外に何の価値も無い服の山に疲労し、文句を言いながら昼食を食べられる場所を探して、入った点心の店が驚くほどウマくって2人で山ほど注文した。
 しかもその店の隣の雑貨屋で、悟浄の好みど真ん中の財布を発見し、喜ぶ悟浄の手からそれを抜き取って、爾燕が『これはオニーチャンが買ってやる』と兄貴風を吹かせたのに爆笑した。


 兄弟と。胸を張れるほど長い間一緒にいた訳ではないが、それでもやっぱり兄は友人達の『イイヤツ』とは何だか違って、悟浄は珍しくちょっと幸せな気分になってしまった。
 だから。
 寺院に爾燕を送り届けて、そこで金髪生臭サディスト坊主が『八戒が帰って来たから夕飯付き合え』と尊大に命令した時にも、まあいいかと頷いた。


 まあ、いい。


 そして昼に山盛り食った癖に更に山盛りな寺の夕飯をがっついて、悟浄は満腹したのである。



 気が付けば。
 紅と爾燕はなかなかイイ雰囲気で酒を酌み交わしている。
 会話の内容が『導くべき民衆について〜自分が先頭に立てるなどという驕りは不要か〜』のような朝まで生討論な話でも、雰囲気が良いのは悪い事ではない。
 悟空は三蔵の目を盗んで飲んだビールで潰れ、テーブルに額を打ち付けた状態のまま寝ている。ある意味非常に器用だ。
 三蔵は先程また僧に呼ばれ、盛大に暴言を吐きながら出て行った。何でも長安の権力者が面会を求めたらしい。アルコール臭は大丈夫なのだろうかと悟浄は余計な気を回した。三蔵法師様ともなれば、説法を行う時にそういったものは消えるのだろうか。大体シラフだろうが泥酔だろうが、悟浄にはあの三蔵に助言を求めたがる人間の気が知れない。もしかして被虐嗜好の人間だろうか。


 そして。


 八戒がいない。


 悟浄は酔いで暖かくなった指で、髪を掻き上げた。
 何となく部屋を出る。
 寺院は回廊でいくつもの建物を繋いでいる。悟浄達がドンチャン騒ぎをしていた廟は当然ながら寺院の最深部で、部屋も全て外廊下で繋がっていた。
 濃紺の夜空。
 白い月。
 僧が必死で磨いているのだろう、深い茶色に変わった床板。
 朱金に塗られた手摺。


 その手摺の途切れた部分に、八戒が座っていた。
 廊下に座って脚の先を外に突き出している。
 高床になっている建物の為に、その爪先は宙で揺れていた。
 気配に敏感な八戒が、悟浄を振り仰ぐ。
 月明かりしかないので、その顔立ちが明確に見えないのが何だか惜しかった。


「悟浄…」
「何やってんの?八戒」


 手摺に斜めに寄りかかって、悟浄はポケットからタバコを取り出す。
 タバコを吸っていると、こういう時に場を持たせられて良いな、と悟浄は思った。
 取り敢えずタバコを吸う時間は稼げる。


「酔い覚ましです」
「はあ?オマエが?」
 呆れたように煙を吹き出して、それでも悟浄はすぐに気付いた。
 八戒はアルコールに強い。そりゃもう強い。味以外ではきっと水と変わらないのだろうと思う。
 それでも。
 八戒はメンタルが弱い。


 きっと、八戒は参ってしまっているのだ。あの日。告白した日からずっと、様々な事で八戒の精神はヤスリを掛けられたように細くささくれ立っている。だから、普通なら何でもないアルコールも、今の八戒にはキツイのだ。
 そうさせた原因の一端。むしろ筆頭。更に言うなら全ては悟浄にある。
 悟浄はフラフラと八戒に近付いた。
 思った通り、八戒の気配が緊張する。緊張しながら、それを必死で隠そうとしている。それに気付かぬ振りをして悟浄は八戒の横にストンと腰を下ろした。
 悟浄が手を伸ばしても、八戒には全然届かない位置だった。
 脚をブラブラさせながら、タバコの灰をずっと下の地面に落とす。
 紙が焦げる音すら聞こえる位に静かだった。


「オマエ、ちゃんと食ってる?」


 悟浄はそう呟いた。
 八戒は。すぐに食べなくなる。眠らなくなる。その身体は心より先に持ち主の願いを読み取り、生きる努力を放棄する。
 そんな事を、同居していた悟浄は誰よりも知っていた。
 知っていたくせに、気付いたのは今だった。


 告白してからも、八戒は悟浄の食事を作り続けてくれた。
 それでも。
 一緒に食事を取った記憶は本当に少ない。
 八戒がちゃんと食べているか、そんな配慮は悟浄はしていなかった。
 自分の気持ちに夢中で、何も配慮していなかった。


 こっちでは食べていたか。
 西に行く道程ではどうか。


 三蔵くらいしか、きっと八戒の食事量に気を止める人間はいないだろう。でも八戒の事だ、三蔵の目のある時には食べて、いない時には誤魔化す事だって考えられる。何しろ三蔵は忙しい。


 何『三蔵は知らない』という方向に持って行こうとしてるんだ俺、と悟浄は我に帰った。


 つまりは。
 八戒が傷付くと食べなくなるという事実を知っているのが自分だけだと良いという独占欲だな、と悟浄は煙を吸う。


 本当ならちゃんと三蔵に伝えて、注意して貰うのが正しいだろうに。
 自分は、本当に歪んでいる。


 八戒は、脚をブラブラさせながら答えた。
「そおですね。少なくとも今は有り得ない位に食べさせられましたねー」
「寺の厨房って何考えてんだろうな。あの量ってナニよ。腹一杯っつーか咽喉一杯だよ」


 悟浄の声は何時もの声だった。
 自分の穏やかさが、ちょっと意外だった。


 兄と話をしたからかもしれない。


 つい先日までは違った。たかがギャンブルで、負けた相手が負け犬らしくちょっと遠吠えしただけなのに、ソイツを半殺しにした。
 女と修羅場を起こした。
 路上で乱闘した。


 そんな悟浄の噂を、爾燕だって聞いていたのだろう。
 兄はえび餃子を噛みながら悟浄に聞いた。



「荒れてんの?」
「まあ」
「それで楽になった?」

 悟浄は箸を止めた。
 兄はそれ以上何も言わなかった。



 楽にならない。
 何しても。思考能力も理性も無くなるほどにブチ切れてみても。何も考えられない位の快楽に溺れてみても。それでも、全然楽にならなかった。
 それで誤魔化すことは出来なかった。


 悟浄の空洞は空洞のままで。勢い良くいろいろな物を流し込んでみても、底に開いた大穴から全部流れ出るだけで。


 でも。
 八戒を目の前にすると、何だかちょっと呼吸が楽になった。


 八戒の為に空洞になったのに。
 それでも八戒がその空洞の寒さを癒してくれる。
 痛みも、暖かさも、もう八戒から以外は貰えないのだ。


 本当に好きなんだなあ、と悟浄は他人事のように思った。
 義母に対してもそうだったが、何をされても。嫌われても。
 それでも何だか、やっぱり好きだ。


 仕方ない。
 幼い頃から、返される愛情を欲しがらない事には慣れている。

 
「紅の城ってどんなだった?」
「凄く立派でしたよ。でも立ち入り禁止で。中には入れてくれないんです」
「そりゃな。観光名所じゃないしな。オマエ侵入しようとしなかっただろうな」
「夜のうちならって準備しましたけど」
「準備までしたのかよ!しかも作戦まで立ててるのかよ!」
 ギャハハ、と悟浄は月を仰いで笑う。八戒はわざと真面目そうな表情を作った。
「だって僕が城を制圧したらメデタシメデタシじゃないですか」
 言いながら脚をブラブラさせる。さっきよりも振り幅が大きい。それだけリラックスしたようだった。
「バーカ。そういうのは俺様の役なんだよ」
 悟浄はそう言うと、親指と人差し指で短くなったタバコを弾き飛ばした。
 その光る放物線を、悟浄と八戒は眺めた。


「またポイ捨てしましたね」
 八戒の溜息混じりの言葉を、悟浄は凄いスピードで捉えた。
「俺、モノ捨てるの苦手でさ。その辺やっちゃうんだよー」
「知ってます」
 もう1度、呆れた吐息。
 悟浄は間を計る。
 早すぎたら警戒される。
 遅れたら考えさせる時間を作る。
「家も今スゲエよ。まあ俺も努力しますけど?」


「紅の事が片付いて、ヤツらが帰ったら戻って来て掃除してよ」


 沈黙。
 それはめげるような時間だったけれど、悟浄は焦らずにタバコを1本引き抜いた。
 タバコを扱う間は、本当に居たたまれない時間を上手く誤魔化してくれる。


 沈黙。


 でも、本当はそんな不自然な間では無かったかもしれない。
 八戒は3度目の呆れた息をついた。


「仕方ないですね。せめてゴミ位は片付けて置いてくださいよ」
「はーい」
 適当な返事を返して、悟浄は詰めていた息をタバコの煙に誤魔化して吐き出した。

 
 こうやって。
 何もなかった顔をして。何もなかったと知らしめるように振舞って、そうして居れば良い。
 八戒が最初に使った手段が、やっぱり一番有効なのだ。
 結局、悟浄はそこに辿り着いた。


 嘘で固めた生活を送ってきた。
 それに、また1つ嘘が乗るだけだ。
 血筋も生まれも過去も性格もなにもかも誤魔化して、それでも悟浄は生きている。
 悟浄の周囲はそれが本当だと思って、そうやって接している。


 上辺だけでも。構わない。
 形だけでも『母』として同居してくれたあのひとのように。傍にいてくれれば、それで構わない。


 今度は、最後を破滅で迎えないように。


 悟浄は細心の注意を払うと決意した。
兄弟萌え。