ほの昏い夜の果て 8
 波乱の一夜が終わり。
 次の日の昼は、もう何だかそれが日常のようだった。



「八戒、これもう1皿作って!」
 悟空が空になった皿を差し出して叫び、横からハリセンが振り抜かれる。
「テメエは喰いすぎだサル!!」
「いいってえええ!!!この暴力坊主!」
「あははは。残念ですがもう材料が無いですよ」
「そうか…残念だな。これは本当に美味かった。俺もお代わりしたかった」
「じゃあ俺のやるよ、紅。八戒、こっちのはお代わりあるか?」
「ありますよ」
「あ、じゃあ俺も!!!」
「あははは。っていうか何で僕がナチュラルにみんなの御飯作ってるんでしょうねー」
「…自分でよそいマス」
 八戒の笑顔に怯えた悟空が椀を持って席を立ち、他のメンバーはこぞって彼に椀を渡した。
「お前も少しは座って喰え」
 三蔵が昼間っからビールを飲みながらそう声を掛ける。心得たように椅子を引いた紅の後ろを通って、八戒は席についた。
 そして、座ったにも関わらず、皆にお茶を淹れ始める。
「あー、良いって。そんなの俺がやるよ」
「ありがとうございます爾燕。でももう淹れちゃいましたから。はい、悟浄」
 差し出されたお茶を、悟浄は前に引っ張った。
 そのままモギュモギュと口を動かして食べ物を嚥下する。何だか全然味がしなかった。味覚が駄目になっているようだ。味わう事に気を配っていられないというか。
「お代わり持って来たーーー!!!」
「そこ置け。後は各自で取る」
 三蔵に言われて、悟浄は機械的に椀に手を伸ばした。
 そのまま口に運ぶ。
「…悟浄、熱くねーの?」
「あ?」
 悟浄は呆けた顔で悟空を見た。
 そういえば熱いかもしれない。
 椀の中身は対流している。湯気も凄い。
 そうか。まだ熱いんだ。
「頭は寝てるんですよ悟浄は。いつもはまだ寝てる時間ですもんね」
 八戒が柔らかく笑う。笑いながら傍の布巾で机を拭く。いつもの表情。
 紅と爾燕も、何だか溶け込んでいる。
 そんな、アットホームな雰囲気。


 何で。


 悟浄はぼんやりと対流する液体を見詰めた。



 何で、そんないつもの表情が出来るんだろうか。



「悟浄?」


 八戒の声が、耳に届いた。
 悟浄はのろのろと顔を上げた。
 碧の目が、心配そうに悟浄を覗き込んでいた。
 僅かに首を傾けて、八戒は瞬きした。
「やっぱりもう少し寝ていた方が良いですよ悟浄。御飯は取って置きますから」
 悟浄はまた、のろのろと対流に目を落とした。
 八戒の顔を見ていられない。
 会話が出来ない。
 昨日だって、此処に到着してすぐ逃げるように部屋に入った悟浄だ。
 あんな風に手を振り払ってしまって、悟浄は混乱してしまった。
 八戒にどういう態度を取っていいか判らなかった。
 でも、八戒は完全に普通の態度だった。
 悟浄の顔を見る。
 その名前を呼ぶ。
 いつもの柔らかいイントネーションで。
 艶のある声で。


 悟浄は呼べないのに。

 
 八戒。


 僅かに唇を開いて、でも悟浄はそれを音に出来ない。
 彼の新しい名前。
 その名前を付けられてから、ずっと悟浄は八戒と同居していた。
 だからこの世の誰よりも、悟浄が一番彼の名を口にしたはずだった。
 八戒、八戒、と。
 他の誰より抜きん出て多く。
 八戒の名前を呼ぶ特権。
 誰よりも多く、八戒にその言葉を聞かせる特権。
 自分が沢山呼んで、『八戒』の名を慣らさなければいけないと悟浄は思っていた。
 他の名前ではなく、自分の名だと一日でも早く認識出来るように。
 それが口実だと、何処かで判っていた。
 あんなに何度も口にしたのに。
 くだらない事で連呼したのに。
 今は、どうしても呼べなかった。

 
 名前を呼んでしまったら、それに付随する色々な想いまで口にしてしまいそうだった。

 
 八戒。


「コーヒーでも淹れます?」
「座ってろっての。あんまり甘やかすと付け上がるぞ」


 会話が耳を流れて行く。


 判っている。
 そろそろ八戒のスタンスと向き合わなくてはいけない。
 八戒の言いたい事なんか明確だ。『僕は気にしていませんから貴方も気にしないで下さい』
 判り易い話だ。


『僕は今回の事もその前も、もう全く気にしていません。もう自分の中では処理されています。終わった事なんですから、だから貴方も』 

 
「…ダイジョーブ。さっさと喰って、帰ってから寝るよ」
 悟浄は椀を置きながらそう答えた。
「帰って、って、オマエ家に帰るのか?」
 爾燕が驚く。悟浄は唇を尖らせた。
「当然だろー。あそこは俺の家だよ。一晩あれば三蔵サマの部下が死体片付けて掃除してんだろ。帰る」
「まだ危ない。此処に居させて貰った方が良いんじゃないか?」
 紅の言葉にも、悟浄は髪を掻き上げながら一蹴した。
「俺独りで居るのに何が危ないんだよ。紅も兄貴も此処にいるんなら俺が襲われる理由は無いだろ。もし来ても撃退すりゃ良いし」
 困ったように客人2人に視線を流され、三蔵はコーヒーを手にしながら悠然と答えた。
「居なくなるのは歓迎だな」
「…そう言われると残ってやろうとか思うな」
 悟浄の返答に、三蔵はやっと目を上げた。
 しかし、紫暗の瞳は会話を交わしていた悟浄ではなく、八戒を向いていた。
「お前はどうする」


 …ああ。
 見抜いているなと、悟浄は漠然とそう思った。


 八戒はコーヒーポットを手にしたまま、瞬間だけ迷ったようだったが、きっぱりと答えた。


「僕は、此処に残ります」


 その答えを、悟浄も三蔵もきっと予測していた。


 三蔵は空にしたカップを八戒に突き出しながら尊大に頷いた。
「そうだな。此処も厄介者が増えたから、お前に世話を任せる」


 八戒の発言のフォローまでしやがったと悟浄は思った。
 ちょっと感謝した。
 実際、居場所と、その口実を与えられて、八戒は安心したようだった。


 これで良いと、悟浄は思った。
 自分が傍にいれば、ずっと八戒を苦しめる。
 全てを精算した八戒にとっては、悟浄が居ない方がいいだろう。忘れる事も簡単になるだろう。
 八戒が居ない生活に慣れれば、きっと自分も頭が冷える。
 姿も見ず、声も聞かず、名前を呼ばない日が続けば、きっと諦める。


 そうすれば。
 いつか、悟浄も全てを精算して、普通に八戒に会えるだろうと、そう思った。


「…八戒。注意事項があるだろう。見送ってやれ」


 三蔵の言葉に、八戒は頷いた。


 そんな言葉を選んで、最後の精算をさせてくれるつもりなのかと悟浄は思って、ちょっと苦笑した。
 実際お節介な坊主だ。


 苦笑した口元を隠すように、悟浄は椀を口に運んだ。


 まだ、かなり熱かった。
 やっと熱さが判るようになったな、と悟浄は他人事のように思った。






 部屋に戻るまでも無かった。
 悟浄は手ぶらで此処に来たのだから。
 注意事項も何も、悟浄は何も喋らずに正門の前まで来た。
 八戒も何も喋らなかった。
 八戒にはもう、喋る事はないのかもな、と悟浄はそう思った。
 自分は。
 言いたいことが多すぎて、口を開いてしまったら全てを吐き出してしまうだろうから、口が開けないのだけれど。
 馬鹿みたいに巨大な門を潜る。
 朱金に塗られた、それだけで1軒の家のような門。
 そこに掲げられた額の文字は、達筆すぎて悟浄には読めなかった。
 そこを潜ると。
 その先は石段。
 つんのめったら大怪我間違いなしの石段が、長く続いて聖殿と下々の街並みを分けている。
 そこで、悟浄はやっと後を振り返った。
 八戒は、気配を出さずに、でもちゃんとそこに居た。


 最後に。
 ちゃんと見ておこうと悟浄は思った。
 綺麗な顔も。澄んだ目も。細身の身体も、風に靡く髪も。


 そんな事をしなくても、きっと忘れる方が無理なのだろうが。


 暫くは会わない。
 思い出しても、心が騒く事が無くなるまで。
 それが、何時だか見当もつかないけれど。


「…じゃな」
「…はい」


 何だか、そんな言葉しか言えなかった。
 言える言葉が限られていた。
 悟浄は、片足を石段に下ろした。
 そのままゆっくりと降りて行く。
 暫く見送る八戒も、すぐに悟浄に背を向けて寺院の方へ帰るだろう。
 そうして、2人の距離は広がる。
 もう、お互いを見えないほど遠くなってしまった心だけでなく、実際の距離までも。

 
 あれだけ傍にいたのに。


『すみません』


 あの時から、2人の間はどんどん遠ざかって行った。
 今も、こうやって。
 どんどん、どんどんと離れて行く。

 
 近付くのは早かったけれど。
 遠ざかるのは更に早い。


 それは1日ごとにどんどんと。


 きっと、明日は今日より離れる。





 気が付くと、石段を2段飛ばしで駆け上がっていた。
 門の横木を、飛び越えていた。


 その名を、呼んでいた。


「八戒!!」


 至近距離で、驚いた顔が振り返った。
 そんな顔も綺麗だと、そう頭の隅で思った。


「八戒、悪い、俺が駄目だ!」
 急激な運動で、息が上がっていた。
 鼓動も早かった。
 その勢いに乗ってしまいたかった。


「お前本当に気にしてねーのかよ!俺にあんな扱いされて、それでも何も思ってねーのかよ!嫌だって、哀しいって、ふざけんな馬鹿野郎って、そう思っただろ!?そーだろ!?」
「…ごじょ…」
 見開かれた碧の目を真っ直ぐ見ながら、悟浄は八戒の声の倍の大きさで咆えた。


 勢いを止められたくなかった。


「マジ限界。辛いんだよ、お前と話せないとかお前に触れないとかお前を八戒って、八戒ってちゃんと呼べないのとかとにかく全部駄目!!」
 八戒は絶句している。
 今のうちだと、悟浄の冷静な筈のどこかが囃し立てた。邪魔が入らないうちに。今すぐに。このチャンスに。
「俺は馬鹿だから言えなかったけど!!!」
 悟浄は八戒の手首を取った。体温を、弾力をはっきり体感して、悟浄は目を細めた。掌が性感帯になったようで、それだけで背筋が震えた。もう絶対離せない気がした。


 八戒は、悟浄ではなく、掴まれた自分の手首を呆然と見下ろしていた。
 伏せがちになった長い睫毛が、薄い瞼が、悟浄を更に煽った。



 限界だ。



「八戒、八戒、俺は…」


 何が起きたのか判らなかった。


 目の前を、紅い花弁が散る。
 あの日、義母に薙ぎ払われた紅い花の残骸が。


 そう思ったのは一瞬だ。花などではない。乱れた自分の髪だった。


 八戒は、珍しく肩で息をしている。
 悟浄よりも荒いくらいの息だった。
 俯いて、両腕を身体よりほんの僅か後方に引いている。


 両腕を。


 そこまで見て、ようやく悟浄は自分の手が痺れている理由が判った。


 掴んでいた手を、振り切られたのだった。
 凄い力で。


「…え?」


 それでも、悟浄はまだ判らなかった。
 掴んでいたはずの手を見ようとして、それでも思い留まった。


 その手に何も掴んでいない事を、目でも確認したら、そのまま膝を付いてしまいそうだった。


「何事だ!!」
「三蔵様に招かれた者達だな!?」
 そんな悟浄の周囲を、2人の僧が囲んだ。
 あれだけ大声で怒鳴っていれば当然かもな、と悟浄はヤケに冷静に思った。
 僧らは僧刀を掲げながら、それでも遠巻きにしている。悟浄と八戒の力を知っているのだろう。
 非難がましい目を、悟浄は直視出来ずに地面に視線を落とした。
 何だか今なら、どんなチンピラにも負けそうなほどに気力が無い。
 もう。
 何も無い。


「すみません、お騒がせしました」
 耳に、落ち着いた八戒の声がする。
 ゆるやかに僧に頭を下げる気配がする。

 
 八戒は。
 何時も通りだ。


 何時だって八戒は。


「何でもありません。もう、戻りますから…」
 八戒の声を背中で聞いて、悟浄はゆっくり歩き出した。
 また、朱金の大きな門を潜った。
 石段をゆっくり踏んだ。


 これ以上、あの落ち着いた声を聞けなかった。
 でも、走って逃げるだけの気力も無かった。
 八戒の元に全力疾走した、あの爆発するような力は、もう悟浄には残っていなかった。

 何やってんだろ。

 悟浄の一部は冷静な声でそう述懐した。

 バカじゃねーの?

 他人事のように、頭の中の声はそう言う。
 それに反論する自分は、いなかった。その冷静な悟浄以外、悟浄の頭の中はショートしているようだった。  
 最後に残る自分が冷静な自我だという事が悟浄は少し意外だったが、そういえば自分は決して熱い人間では無かったと思い返す。

 …何回痛い目みれば学習すんの?

 呆れた声で自分が言う。
 反論さえせずに悟浄は石段を下りた。


 八戒は俯いていた。
 激情に息が荒かった。
 そんな姿で自分の前に立つ存在に、悟浄は嫌という程覚えがあった。

 
 義母が。


 悟浄を殴った後、そんな呼吸をしていた。


 本当はそれ位では殴り足りなくて。それでも残った理性が自分を止めて。そんな風に止める理性が更に煩わしくて。義母は大抵更に激昂した。
 その記憶は、鮮明だった。
 その記憶が、悟浄の手を。舌を。脚を止めた。無抵抗に殴られていた、それは反射のようなものだった。


『触らないでよ!!汚い!!』
 甲高い声を思い出す。


 八戒の感覚も、きっとそんな変わらなかっただろう。


 自分は触りたかった。暖かさを感じたかった。理解して、存在を許容してほしかった。それだけで良いから、とそれが高望みだと子供の頃から身に沁みて判ったはずなのに。


 望まなければ。存在を感じさせないようにひっそりと暮らしていれば。まだあんなには嫌われずに済んだかもしれないのに。  

 
 今回も全く同じだ。


 学習能力というものが無い。


 母親に癒されず、カラッポのまま悟浄は育った。
 そのカラッポは何人かの女性が埋めてくれたが、それも長くは続かなかった。悟浄の内部は空洞で、しかもどこかに大きな穴が開いているらしくて、いくら注いで貰っても満たされずにそのうち消えた。


 それを。
 いっぱいに満たしてくれたのが八戒だった。
 いっぱいに満ちたのは八戒の優しさだったけれど、それは悟浄の内部を埋めたから、いつしか悟浄自身の思いになった。
 八戒が満たしてくれた優しさは、悟浄の八戒に対する思いになった。

 
 けれど。
 そこにはまた、大きな穴が開いて、今は悟浄の内部からどんどんと流れてしまっている。
 また、悟浄はカラッポになっている。


 流れてしまった思いはどうなるのだろうと悟浄は思った。
 器自体に穴が開いてしまった今、もう1度内部に戻す事は出来ない。
 カラッポになったまま、悟浄は歩く。
 なんだかフワフワしている。
 カラッポになった分、軽くなってしまったのだろうか。

 
 そんな訳ないだろ、と冷たく内部の自分が悟浄に言った。


 何だか。
 力いっぱいにブランコを突き飛ばしたような気分だ。
 八戒に届くように、勢い良く押し出したブランコは、実は何も乗ってなくって。
 手応えの無さに体制を崩した悟浄の元にそのまま戻ってぶつかった。
 押し出すのに夢中になった悟浄は、防御なんて忘れていて、だから痛かった。
 そんなバカな話だ。


 そんなバカな話なのに、出来た傷は途方も無い深さだった。


 スタスタと悟浄は歩く。
 普通に歩く。
 それでも何だかフワフワしている。
 内部の声も聞こえない。妙に心が静かだ。


 こんな感覚、馴染み深い。


 タバコに火をつけ、カラッポな内部に煙を取り込んで、悟浄はボンヤリと思った。


 どうやら。
 壊れたようだった。
テーマソングはガンダムSEEDの「あんーなに一緒だったーのにー」でひとつ。