ほの昏い夜の果て 5
「…ごくろーさん」
「全くだよ」
 悟浄は右手を振りながらマスターに答えた。何時もはベストと蝶ネクタイで固めているマスターも、今日はポロシャツのラフな服装だ。
「お前が働くとは思わなかったな」
「俺もだっての。氷取りに行くだけのはずがよー」
 悟浄は赤くなった右掌を見て肩を竦めた。氷があんなに硬いとは思わなかった。錫丈で砕いてやろうかと何度か思ったのだが、そういう訳にもいかないだろう。
「どっちかっていうと八戒がやってくれそうな仕事だがな」
「いや、最初はヤツが…」
 言いながら周囲を見回して、悟浄は初めて八戒がいない事に気付いた。
 さっきまで、前にいたのに。


 その八戒は、厨房で包丁を手にしていた。山になった玉葱を恐ろしい速さで微塵切りにしている。
 見慣れた光景。
 音までは聞こえない筈なのに、耳の中で包丁の立てる音すら思い出せる。
 八戒のリズム。



「…」



 結局、ずっと顔を合わせることが出来なかった。
 だから、八戒がこのパーティーに来るかどうかは、悟浄に確信はなかった。
 それでも。
 入口にずっと、ずっと注意を向けていて。
 八戒の細身の姿が現れたときはホッとした。
 そして、直後落ち込んだ。


 こんなんじゃ駄目だ。
 話がしたかった。
 ただそれだけで。ちょっと前までは何も考えずに成し得ていた事が、今は難しい。
 何から切り出していいか判らない。
 何て言えばいいのか。
 途切れない会話の内容は、何かあるだろうか。
 そんな詰まらない逡巡が、結局悟浄の脚と舌を止めている。気持ちだけ焦って、雄弁になって、燻るばかりで実際には何も出来ていない。
 自分の情けなさに、沸き起こる自己嫌悪すら最近は慣れた感情だった。


 話がしたい。
 ちゃんとした会話が。


 声だけなら、悟浄は聞いている。
 今日だって、朝は八戒に起こされた。
 食事だって作ってくれた。
 出掛ける悟浄を送り出してくれた。


『起きて下さい。もう昼です』
『コーヒーとミルク、どちらにしますか?』
『いってらっしゃい』


 それはいつもの八戒の言葉。
 八戒と名前を変えて悟浄の家に来てから、その日から毎日口にしていた言葉。
 今までずっと。
 まるで、告白などなかったかのようにずっと。


 八戒はやっぱり、何も無かったかのように過ごしている。あの日自分で言ったように。
 告白して、それだけ。と口にしたように。 
 そして、それを実行している。
 八戒は一度決めたら揺るがないから。
 とはいえ。
 それが実行出来ているという事実が、八戒と悟浄の気持ちの差を表しているように思えて、悟浄を打ちのめす。
 自分は、元に戻れなかった。
 それだけ、自分の根幹まで根深く張った想いだから。
 それを無かったことにしたら、自分の大部分も一緒に持っていかれてしまう。
 そんな強い思いで、悟浄は八戒を思っていた。
 思っていたが。
 気付いた時には遅かった。
 どんなに自分の気持ちが真摯でも、あんな酷い事をして、酷い事を言った後で『実は俺も』なんて言えるはずがない。『俺の方が真剣』なんてとても言えない。好きだと言う資格など、もう悟浄には無いのだ。
 言って、八戒に届くだろうか。
 今度はそういう風に傷つけるのかと、そう思われないか。
 本気だと思ってくれたとしたって、呆れられるのがオチだろう。むしろ憎むかもしれない。
 そういう風にしたのは、悟浄だった。
 今更何をしたって、悟浄の仕打ちは消えない。してきた事は無かった事に出来ない。
『ゴメン、酷い事したけど、俺もお前が好きなんだ』
 そんな事。
 悟浄が言われたら鼻で笑うだろう。どんなに好きだと思ってたって、醒めるだろう。馬鹿なやつだと。何今更言ってるのかと。ふざけるなと一蹴して切り捨てるだろう。自分ならそうする。だから。
 だから。悟浄はそういうそぶりも見せられない。


 そう思って。
 グラスの中を飲み干した時、オーナーの声が掛かった。
 八戒に、氷砕きをさせるらしかった。
 それを聞いて、悟浄は憤慨した。外見には出さなかったが、舌打ちでもしたい気分だった。


 いつも、いつも貧乏くじを引くのは八戒だ。
 人当たりが良いから。
 そんな義憤の他に、別の感情も湧いていた。
 八戒も、どうしてそう何でも引き受けるんだよ。
 だから舐められるんだよ。


 八戒に
 そうやって個人的な不満を持ったのは初めてで、悟浄は自分の思いに驚いた。
 八戒は、いつだって悟浄にとって自慢で。
 それなのに。
 深く想うようになったら、それ以外の感情も深くなってしまったのか。
 自分への苛立ちが、摩り替わっているような気もした。


 だから、悟浄はグラスを口実に席を立った。
 八戒は何でも引き受ける。
 そして何でもそつなくこなす。
 でも、今回は周囲の人間が非力すぎた。
 そんな奴らが、砕くはずの氷よりも間近の八戒の綺麗な顔ばかり見ているのに気付いて、悟浄はその中に乗り込んでしまった。


 八戒は何でも出来る。
 何でも出来るけど、でも。
 自分がいた方が、もっと出来るんじゃないかと、そんな風に悟浄は思いたかったのだ。


 それなのに。
 八戒はもう別の場所で別の事をしている。
 まるで。
 悟浄など最初から必要無いというように。



 片手で鍋を振る八戒を視界に入れて、悟浄は不意に悟った。
 八戒は、独りでも平気なのだ。
 平気でないのは、悟浄の方だった。


 だから、やっぱりそうなのだ。八戒の好きは、そういう『好き』なのだ。駄目なら引っ込める、そういう程度の『好き』で、普通より沸き立った感情は軽く指し水さえすれば元の温度に戻る、そういうものなのだ。
 悟浄の感情とは、全然違う。違いを表す言葉がないから、同じ単語で言うだけで、中身は全然違うのだ。
 あくまで、八戒の『好き』は『親友』の先。
 悟浄は違う。
 自分の目が熱くなっているのを悟浄は自覚した。キッチンに立つ八戒のそのなだらかな背中のカーブ。シンクに寄り掛かる腰。その服の内部を想像している。
 実際見ている。そして触れている肌だ。昔の事なのに、思い出せば感触はリアルに掌に蘇えって来た。怖いくらいにリアルに。その肌を思う様蹂躙したい衝動を、飲み込むのに苦労した。
 悟浄は、そういう意味の好きなのだ。
 脳内で、悟浄は八戒を犯す。適当な女を想像する時には都合良く喘ぐ相手が、八戒を想像する時だけ違った。
 八戒は、答えを得られない子供のような顔をして悟浄を見返していた。


 何で。
 どうしてこんな事を?


 そう、問い掛ける顔。


 八戒と自分との間には、そんな溝がある。
 感情の数と言葉の数の、絶望的な差による擦れ違いが。


 悟浄は目を伏せた。


 だったら。
 やっぱり言わなくて正解だ。


 男同士の性交には協力が必要だ。八戒が考えもしなかった『好きの先』で怯え、抵抗したとして。
 告白というハードルを飛んでしまったら、自分に歯止めは利かないだろうと悟浄は判っている。
 止めてあげるような寛容な気分にはなれないだろう。下手をしたら、八戒を壊す。
 そんな酷い事を、悟浄は八戒に強いろうとしているのだ。


 それなら、やっぱり黙っていた方が良い。
 壊してしまう位なら、このまま誤解されている方が良い。


 なんだ、そうだったのか、と悟浄は厨房から席に戻った。
 女の声を聞き流しながら、納得する。

 
 愛情を欲しがるという行為が、相手をどんなに傷つけるか、そんなの幼い頃から身に沁みて判っていたはずだった。


 なんだ。


 そうか。



 席に戻った悟浄を、女達は待ちくたびれた感じで迎えた。
 煙草を咥えた悟浄の前に、いくつかの火が向けられる。
 判り易い媚び。
 火が欲しいだろうという気遣いではなく、それは媚び。
 灰を落とそうとした灰皿が、さっき悟浄が立った時そのままに吸殻で溢れているのを見て、悟浄は目を細めた。
 女性達は周りでおしゃべりをしている。
 最近の服。新しく開店した店。友人の情報。
 誰も、本当に悟浄に気を払ってはいない。


 ここに八戒がいれば。
 綺麗に洗って、綺麗に拭いた灰皿があっただろう。
 綺麗好きというのは確かだ。きちんと整える事を好むのもある。でも、それは悟浄への気遣いだ。
 気持ちよく煙草を吸えるように。


 …こんな所にも、八戒の事を思い浮かべる事が出来る自分に、悟浄はやりきれずに髪を掻き上げた。

 
『やっぱ綺麗な灰皿は気持ち良いよなー』
『そう言うならまず空き缶をやめましょうね』


 間髪いれずに釘を刺す八戒の声が聞こえる。


 悟浄の視線はグラスに向いた。


『ラム買おうよ』

 八戒の腕を取る自分を思い出す。


『ほら、ラムって何だか野郎の酒って感じじゃん』
『俺、初めて飲んだのラムでさ。次の日大変だったよ。背伸びしたかったんだよ』


『八戒は何好き?』
『ホントはカンパリオレンジとか飲んでみたいんだけどなー』


 くだらない事を随分喋った。身にならない、薄い、口にしてもしなくってもどうでも良いような会話を。


 腕を取り、肩に腕を回し、頭を抱えながら。

 悟浄は、ふと隣の女の肩を抱いた。
 セクシャルな気紛れに、女達が歓声とやっかみの混じった声を上げる。


 女の剥き出しの肌は、細かった。
 掌に骨が当たりそうな薄さだった。
 悟浄の長い腕は楽々と隣の女の背を通り、肩に触れ、手首近くの腕から先は宙に浮いた。

 華奢とはいえ、八戒の肩に腕を回した時は掌にしっくりと肩の角を包めた。
 こんな風に余らなかった。


 ヤバイな、と悟浄は女から手を離して、その手で煙草を挟んだ。
 何をしたって、八戒がちらつく。
 こんなに自分の生活に溶け込んでいたのだと、悟浄はやっと実感した。

 
 会話の内容なんて、どうでも良かったのだ。
 自分の存在を八戒に知らせたかった。
 悟浄の話に微笑む八戒が見たかった。
 それを自分だけで見たかった。
 だからその身体を抱き込んだ。


 酷く簡単な自分の行動理由だった。



 でも、そんな事ではいけないのだ。

 八戒を傷つけた。
 それでも、八戒は普通に接してくれている。
 それに答えないといけない。
 友人以上など望むべくもない今、選べるのは2つ。友人か、友人以下だ。
 離したくは無かった。どんなに苦しくても、それでも離したくはなかった。


 友人に戻れるのなら。
 それは現在からすれば、高い望みともいえた。
 友人に戻らせてほしい。
 それが、八戒の中できっと今の悟浄の占める最も高い位置なのだから。
 そのためには。
 自分も八戒のように割り切るのだ。
 今まで通り。
愛情に臆病な悟浄