ほの昏い夜の果て 3
 その週末には、悟浄のいきつけの店の開店3周年記念パーティーだった。


 もう、2ヶ月以上も前から悟浄にも、その連れとして八戒にも声が掛けられていた。その夜は常連だけを集めて貸切で徹夜で飲み明かすとオーナーが決めていたのだ。
 悟浄は普通にOKしていた。
 八戒の予定は聞かないまま、それでも一緒に行くと2人とも口に出すまでも無く思っていた。


 そう思い返して、八戒は店の扉を開いた。
 視線がそう広くは無いけれど、見通しの悪い形の店内を彷徨う。


 すぐに判った。
 赤い髪を1つに纏めようと苦労しながら、悟浄は店の奥で女性に早くも囲まれていた。
「よう、八戒。悟浄と来ると思ってたよ」
 女性オーナーの豊満な腕に腰の上を叩かれて、八戒は微笑んだ。
「彼は昨日から飲み歩いてますから」
「ろくでもないね。席空けてあげるから、向こう行って来な」
「いえ、今日は僕はウェイターのお手伝いで来ましたから。此処で構わないです」
「…あっそう」
 八戒を見上げる位の小さい女性オーナーは、はっきりした二重の瞳で八戒を見て、まあいいか、と視線を反らせた。
「んじゃあ、遠慮なくこき使わせて貰うよ。ろくでなしの分もね」
「あはは。それは嫌ですねー」
 八戒はキッチン傍のスツールに細い腰を掛けた。
 オーナーは、何だかぎこちない八戒に気付いただろうか。
 気付いたとしても、詮索しないのが酒場で仕事をする女だ。
 まあ、どっちでもいいと、八戒は磨かれたカウンターに頬杖をついて、視線だけを斜め後に向けた。
 女性の甲高い声に掻き消されて、悟浄の声は聞こえない。
 それでも。
 その視線が1度も自分に向いていないと、確認しなくても八戒は判ったので、頬杖を止めて前に向き直った。


 今日、このパーティーについての会話を、悟浄としなかった。
 むしろ、最近は会話自体が殆ど無い。
 それでも八戒は此処に来た。自分は悟浄のオプションだと、八戒は自覚している。常連中の常連である悟浄。彼がいれば客の入りまで違う悟浄を招く為に同居人も、と気を使ってもらったのだ。
 それなら、辞退など出来る立場ではない。
 


『パーティーですか。どうしようかな…』
『行こうって。お前がいてくれれば、俺が何かやらかしてもフォローしてくれるじゃん』
『うわ。僕悟浄のブレーキ係ですか』
『なーなーなー八戒、行こうよう、行こうよう』
『判りました。行くからには会費の元を取る位は飲みますからね』
『…パーティーでそれってスゲエ嫌な客…』



 そんな会話を思い出した。
 もう、悟浄のフォローは出来そうに無い。
 誰よりも、悟浄がそれを望んでいないだろうと八戒は判っていた。
 何だか。
 今なら悪酔いまでしてしまそうで、八戒は氷の入った水を口に含んだ。
 飲む事も。
 出来そうに無かった。



「あ、八戒!」



 オーナーに呼ばれて、八戒は顔を上げた。
 オーナーは、キッチンに通じる扉を丸い肩で押して、顔を出していた。 
「悪いんだけどね!キッチン入ってよ!氷とか砕くの大変でね!」
「はい」
 八戒は微笑んでスツールから身体を捻って床に下りた。

 気が紛れる方が楽だった。





「…結構あるなー」

 八戒も顔を覚えている従業員が、ブロックの氷を見て溜息をついていた。
「アイスピック握ってると手ぇ痛くなるんだよね」
「オーナー、もっと応援呼べませんかー?」
 若い男の子の嘆願を、偉丈夫である女傑は鼻で笑った。
「何言ってんだい。お客を働かせるかって」
「…八戒さんは…」
「あ、お構いなく」
 八戒はちょっと場違いな台詞を場違いな微笑みと共に口にした。
 それで何となく場が纏まるのが八戒の不思議な笑顔の威力だ。
「さて。どうしましょうね。ピックは5本ありますから、片っ端でいいでしょうか」
 八戒の言葉に、取り敢えずは氷柱を見てても仕方ない、と従業員がピックを握る。
「何トロくせーコトしてんだよお前。かき氷作る気か?」
 その時に。
 聞き慣れた声がした。


 八戒が顔を上げると、キッチンの扉を片足で開けた悟浄が、グラスを持って一番近くの従業員に言っていた。


「早くしろよー。ロックのお代わりが欲しいんだよー」
「そんな言うならテメエでやれ悟浄!」
「んだとコラ!客に働かせるのかよ!」
「今日は客も何も無いんだよ!」
「バッカ、俺が華麗なるロックを削ってやるから見てろ!」
 悟浄はピックを持って、氷に凄い勢いで突き刺した。
「馬鹿!悟浄!跳ねるだけじゃねえかよこの無能!」
「あれ?」
 悟浄は続いて何度も氷にピックを突き立てる。それでも雹のような飛沫が飛ぶだけで、大きい氷は砕けない。
「何で割れないの?」
「そう簡単にでっかい氷が真っ二つになるかボケ!」
「さっきから生意気なんだよガキ!」
「おい悟浄、ちょっと貸せよ。端っこから割っていけば割れるだろ」
「端っこっつーか、角からだろ?斜めにさ。ちょっと、俺にもちょっとやらせろって」
「ハンマー無ェのかよ!あ、俺に貸して」
 


 何だか。
 キッチン入口で悟浄が騒いだせいで、厨房は客で一杯になってしまった。
 八戒は、新たに来た男にピックを渡しながら、楽しそうに笑う悟浄を遠く見詰めていた。

 悟浄には人を巻き込む才能がある、と八戒はこんな時いつも思う。
 華がある。
 みんな、彼の周りに集まる。
 気安く声を掛け、笑い、屈託無く喋る。一見近付きがたい風格と容貌をしているが、悟浄は隔意を抱かせない才能がある。 
 そんな事は判っていた。
 ずっと前から判っていた。
 

 でも、それでも。
 こんな場面で目前でそういう所を見せられて、八戒は唇を噛んだ。
 動揺した。
 遠く思った。
 そして、嫉妬した。


 そういう部分が本当に好きなのに、同じ部分に苛つく。 
 尊敬しているのに、見下している。
 もう、自分の感情が滅茶苦茶で八戒はじりじりと後ずさりした。


 
 此処には。
 居たくない。



 厨房の更に奥で、オーナーが中華鍋を振っている。
 それを口実にしようと八戒はその場を離れた。



 大好きと大嫌いと。
 それは心の中に物事を整理する棚があるとしたら正反対の位置に仕舞われているものだと思っていたのに。

 もしかしたら、凄く近い所に存在するのかもしれなかった。



 手伝います、とオーナーに声を掛けて、泥のついた野菜を水で洗う。
 その冷たさが、八戒の混乱した思考をゆっくり冷やした。


 悟浄は、最近また対応を変えた。
 前は、もっと絡んで来たのに、今は触れるどころか視線を合わさない。
 けれど、それは悟浄の選択だ。
 八戒の罪を見せつけるために蒸し返し、接触するのも、全てを止めて離れるのも、それを選ぶのは悟浄だ。悟浄にはそれだけの権利がある。
 逆に、八戒にはもう何を言う権利も無かった。
 それだけの事をしたのだ。
 針を突き立てられるような言葉と視線で捕らえられ、耳を塞ぐ事も許されないまま、悟浄の体温を感じているのも苦痛だったのに、これ以上の罰は無いと思ったのに、完全に関心を無くされるとそれはそれで痛かった。
 結局、悟浄がどうしたって自分は痛いのだと八戒は思う。勝手な事だ。


「…流石に手際が良いねえ」


 オーナーの声に、八戒は手元を見た。
 皮をクルクルと剥いたジャガイモとニンジンが綺麗に積まれていた。


「小さい頃から慣れてましたから」
 八戒はオーナーに微笑んだ。
 孤児院では、自分達の生活の為に自分で働いた。
 上の空でも手が動いてしまう位に染み付いてしまった。
 もっと、料理を集中しなくては出来ないようなレベルだったら、余計な事を考えなくても良いのだけれど。
 オーナーは薄く1枚に剥かれた皮を見て感心した。


「悟浄には勿体無い同居人だね」
「あはは」

 八戒は笑って、ジャガイモの芽を抉り飛ばした。



 悟浄が、八戒に関心を失ったのなら。
 傍で罪を見せつける事にも飽きたのなら。
 あの家を出なければな、と八戒は改めて思った。


 きっと悟浄は。
 存在を感じるのさえ嫌だろうから。




 言わなければ良かった。



 自分の失った物が大きくて、重くて、多くて、空虚さに身震いしながら八戒は思う。
 あの日から。あの時から何度も何度もその思いは八戒の中に浮かんだ。ある時は焼かれるような後悔と共に。またある時には胸の奥に滴る雫が凍りつくような冷たさで。


 けれど、今回八戒の中に浮かんだその思いは、静かなものだった。
 心の水面に、波紋すら立てずに浮かび上がったような思いだった。


 この痛みにも慣れたのかもしれない。
 それとももう、自分は…諦めてしまったのかもしれない。
 そう、八戒は思った。


 言わなければ良かったけれど。
 でも、どうせ自分はあの気持ちを押さえつけてずっと過ごせやしないだろう。
 我儘で自分勝手な自分だから。きっといつか言ってしまっただろう。
 耐え忍ぶなんて、そんな事が出来ただなんて、八戒はもうそんな思い上がった事を想像出来なかった。
 どうせ、いつかは言ってしまう。
 悟浄の事など考えもせずに。ただ溢れる感情を制御出来ずに彼に浴びせ掛けるだろう。
 切羽詰って、みっともなく、なりふり構わず、詰め寄るかのように悟浄に言っただろう。溜め込んでいた分、あの日の八戒よりもきっと有無を言わせぬ力で言って、結果を求めて。


 そして、きっと更に悟浄を怒らせた。
 
 
 そんな事になる前に。
 まだ自分に理性があるうちに。
 あのタイミングで言えたのは良かったのだ。
 きっと、最悪の状態じゃないから。
 今の方が、まだ傷は浅いだろうから。
 だから、間違ってなかったのだ。

 間違ってなかった。
今回短いね!!