ほの昏い夜の果て 6
 それから数日、2人は普通に暮らしていた。
 とても普通に。
 八戒はいつも通りに生活をしたし、悟浄もそうだった。
 ぎこちない所はまるでなかった。
 食事の間は、悟浄が味を誉め、八戒はそれに礼を述べた。
 2人とも、その時に微笑んだ。
 ごく普通の同居風景だった。


 ただ。
 2人は絶対に接触しなかったが。
 長く視線が合うと、どちらともなく視線を逸らすが。


 2人とも、お互いに気を使っていたが。



 それでも、何となくこれで良いのかと2人とも思っていた。
 いつか、これが慣れるだろう。
 これが普通になるだろう。


 物足りないと、ぎこちないと、そんな風に過去を思い出す事も、無くなっていくだろう。


 そう思っていた。

 そんな、中途半端な空虚な日常を、今日も終えようとした時、激しいノックの音が遮った。






「兄貴!?」
 扉を開けた悟浄の叫び声に、八戒の方が驚いた顔をした。
 そういえば身内がいるとは教えていなかったと悟浄は冷静に思う。
 家族に縁が薄いと。そう言っていたから。
「悪い」
 悟浄と全く似ていない男は、それだけを言うと、ドアの傍にいた八戒を押し退けるようにフードを被った青年を家に押し込んだ。
「えーっと…」
 八戒は外見全くそう見せないまま、僅かに困ったようだった。
 横で悟浄は判り易く驚いている。
「ちょっと待てよ兄貴!アンタ一体どうして俺の家…っつーか、何だよ…」
 悟浄は俯いた。紅い髪が視界を隠す。
「…生きてたのかよ…」
「悟浄…」
 緊張に引き攣っていた精悍な男の顔が。幼かった面影を失っていないその顔が瞬間綻んだ。
 彼らの中では一回り小さい青年は、困ったようにフードを弄っていた。


「えーと、いらっしゃいませ」


 緊迫した雰囲気の中、八戒はにっこり笑った。
 3人は、ポカンとしてそんな八戒を見詰めた。
「まずは上がってください。今お茶を淹れますから」
 視線に負けずに、八戒は更に完璧な笑顔になった。


 吹き出したのは、悟浄だった。
「だってよ。ホラ、上がれよ兄貴。話はそれからだろ」
「ああ…そうだな」
 精悍な男は、躊躇いを一瞬で振り切り、八戒に人好きのする笑顔を向けた。
「悪い。邪魔するわ」
 フードの青年も、肩を押されて頷き、家の中に踏み出した。
「邪魔を、する…」
 フードを取ったその青年の手の下から、長い髪が背に零れる。
 それが赤いのを、悟浄は部屋に向かう前の、最後の視界で捕らえた。



「俺は沙爾燕。悟浄の兄だ。似てないけどな」
 爾燕はそう言って笑った。
 確かに似ていない。
 悟浄の兄にしては、線の太さも雰囲気もまるで違う。
 それよりも、よっぽど爾燕の横にいる青年の方が悟浄に似ていた。


 悟浄よりは彩度の低い、赤い髪。
 鋭い瞳と、長い睫毛。


 その青年を示し、爾燕は曖昧に言った。
「…で、コイツは…紅だ。ちょっとした理由があって本名は出せない」
「…物騒だな」
 悟浄はそう答えて湯飲みを持ち上げた。
「物騒なんだよ。マジで」
 爾燕は顔を顰めた。
「…すまない」
 紅は、そう言うと僅かに頭を下げた。
 その雰囲気が年寄り大人びている。風格と品格が滲み出ていた。
 普通の身分じゃないんだろうな、と煙草を咥えながら悟浄は思った。視界に八戒の白い手が爾燕の前の湯呑みに急須から緑茶を注ぎ足しているのが見える。
 その横顔は全く動いていないが、八戒もその雰囲気を察しているだろうという事は想像出来た。


「で?何で兄貴はココを知ったんだ?」
 悟浄は義理の兄にそう水を向けた。
 長い間音信不通・生死不明だった兄には、他にも聞きたいことは随分あったはずだが。
 何となく、聞いても仕方ないのかとも思う。
 悟浄が『あの後』を兄に聞かれても答えに詰まるように。
 良い事なんてほとんど無かった。子供が1人で生きて行くという事がどんなものか、悟浄も爾燕も知っている。
 結局は、今なのだ。
「結論から行くと偶然なんだ。此処を聞かされたのは、長安の玄奘三蔵からだからな」
 爾燕もその悟浄の思考の流れを読んだのだろう。切り替えたようにテーブルの上で指を組んだ。
「三蔵〜!?」
「…お前も随分と偉い人と知り合いなんだな悟浄」
「知り合いじゃねえよ!あのクソ坊主、また何の説明も無しで!!」
 悟浄は膨れた。
 そんな悟浄の憤慨に、歓迎されない立場だと紅が身を硬くする。
 その長い髪をグシャグシャと撫でて、爾燕は肩を竦めた。
「まあそう言うな。俺にとっちゃ少なくともラッキーだ。実は、コイツは狙われててな。ある場所から脱出して来たんだ。とある研究の犠牲にされる所だった。で、その研究には経典が関わってて、その経文を玄奘三蔵が気に掛けてた…ってなわけで、俺はコイツと経文を持って、玄奘三蔵の所に行く訳だ」
「三蔵とは以前から連携を取っていた、という訳ですね」
 八戒が静かに確認を取る。爾燕はそちらに顔を向けて、1つ頷いた。
「以前からな」



 つまりは。
 爾燕は三蔵への手土産を持って、その代わりに紅の保護を求めた、という訳なのだろうと悟浄は煙草を灰皿で叩きながらまとめる。
 その手土産は、何だかヤバそうな実験に使われてたモノ。
 という事は、爾燕は研究に必要な経典と犠牲と、2つも攫って逃げてきた訳なのだ。
 おそらくは、それだけの研究を行えるだけの強大な力を持つ相手から。多分遠い道のりを。
「経典を持っていると確認された時点で、長安の寺には先回りした見張りが行っているだろう。2人で向かうのは危険すぎる。そう言ったら、向こうから此処を指定したんだよ。長安に適度に近いくせに隠れ家みたいに行き難い家があるってな。そこの2人はもし追手が来てもソコソコ撃退出来るだろうし、万一死んでも惜しくないから、其処にいろって」
「…クソ坊主…」
 悟浄は歯噛みをした。
 初めて、紅が僅かに笑った。
「んでその家の持ち主の名前聞いたら沙悟浄だって言うじゃねえか。驚いたなんてモンじゃねーよ。それ俺の弟ですーって玄奘三蔵に紹介した位だよ」
 爾燕は豪快に湯呑みを空にする。悟浄は頭を抱えた。
 何だか厄介ごとに巻き込まれた。
 しかも義兄が関わっているとあれば、悟浄に拒否は出来ない。それを全て理解して三蔵は説明を放棄したのだろう。
 非常に、ムカツク。
 判り易くコマにされている。
 しかも選択の余地は無い。
「…わーったよ…」
 悟浄は力無く手を振った。
「好きなだけ此処に居ろよ…」
「…感謝する…」
 吐息と共に紅がそう礼を述べた。肩がストン、と落ちたのが判る。
 それだけ緊張していたのだろう。ここまで気を張って逃げて来たに違いないのだ。
 人の良い悟浄はちょっと同情なんかしてしまった。
 兄が、この青年を大事にしているという事は行動の端々に顕著に出ている。
 それなら、悟浄も大事に扱わなければ、というものだ。
「悪いな。1晩床の隅でも場所もらえればラッキーだから」
 が。
 そう言う爾燕の言葉に、ふと悟浄は気付いた。
 この小さな家に、客室など無い。
 物置にしていた部屋は、今八戒が使っている。
 となると、本当にリビングに寝て貰うくらいしか無い訳で。


「相部屋でも良ければ、部屋はありますよ」
 タイミング良く発せられた八戒の言葉を、悟浄はハッキリ言って『やっぱりな』という気持ちで聞いた。
「ただ、少し掃除の時間を頂けますか?…良いですよね、悟浄」
「…」
 自分の部屋を明け渡そうと、八戒は言うのだ。
「…じゃ、オマエは?」
 この質問を口にしなければいけない現状を、悟浄は呪った。
 前だったら『じゃあ八戒は今晩俺の部屋』と強引に決めただろう。

 でも。
 今は駄目だ。
 こんなに自分をセーブしているのに。
 それでも、時々無言で腕を取ってしまいそうな衝動を覚えるのに。
 1晩だって、1時間だって同じ狭い部屋になんて、いられるはずがなかった。

「そうですね」
 八戒は考えるように碧の目を天井に向けた。
 悟浄には判る。
 これは、八戒が『考えているふり』をしている時の顔だ。
 もう、答えを持っている顔だ。
 八戒は、視線を戻して微笑んだ。
「三蔵の所にいきます。今回の首謀者ですから嫌とは言わせませんよ」
 完璧な答えだ。
 悟浄は脱帽した。
 ケチのつけようもない、自然な発案だ。しかも八戒らしい口調だ。
 でも。
 例えば。明日爾燕と紅が出て行った後。
 八戒は戻って来るだろうか。


 これだけ酷い目に合って、それでも。
 また戻って来るだろうか。


 戻って来なかったとして。


 自分は、何と言って呼び返すというのか。


 離したくない。
 悟浄はテーブルの上で拳を握り締めた。
 離せないのだ。
 どうしても。
 離さないことが辛くても。
「ダメ」
 悟浄はそう答えて、握った拳を開いて煙草を口に運んだ。
 その手が震えていて、気付かれないようにすぐテーブルの下に隠した。
「オマエいないと、食事作るヒトいないもん」
「…」
 八戒は黙った。
 そんな言い方しか出来ない事に、悟浄は隠した手で、ジーンズの腿に爪を立てた。
 悟浄が言えば、今の八戒は従うのだ。
 それが嫌でも。
 負い目があるから。
「今日は俺達はリビングソファな。兄貴は向こうの部屋の床で毛布」
 リビングなら自室よりは広くて、締め切る閉塞感は無い。
 これがギリギリの提案だったが、悟浄の勝手な結論は、皆を等分に困らせた。
「…俺だけが優遇されていないか」
 紅はそう眉を顰め。
「紅と俺はいいけど、八戒が可哀相だろ。オマエ独りで部屋明け渡してリビングで寝ろよ」
 爾燕はそう悟浄に言い、悟浄に殴られた。
 八戒は。
 きっと、自分がソファを使うから、悟浄は部屋で寝ろ、と言いたいのだろうと悟浄は思う。
 悟浄に拾われた身だから、家主がベットで寝るべきだ、と普通にそう思っているのだろう。


 でも。


 悟浄が言うなら、そんな些細な主張すら、八戒は飲み込む。
 そんな事を強制している訳ではないのに。
 それでも、そこまで八戒を萎縮させたのは悟浄なのだ。


「んじゃ、俺は玄奘三蔵の所に到着報告行って来る」
 そう告げて、爾燕は椅子を引いた。
「もう行くのかよ」
 悟浄は片眉を上げた。
 今着いたばかりなのに。
 多分、疲れているのに。
 しかし、爾燕はくしゃりと笑って頷いた。
「報告だけな。紅は此処に居ろよ。お前は目立つからな」
 紅は、躊躇いながら頷いた。
「…足手纏いには成りたくないからな…でも、気をつけて」
「俺も行こうか?」
 悟浄の提案は、爾燕自身が却下した。
「バーカ。お前も目立つだろうよ」
 確かに。


 爾燕は、悟浄の肩を掴んだ。
 大きな手だった。


 義母の前で、自分の後ろに庇ってくれた時と同じ。
 力強い手だった。


「それより、まず無いとは思うが、此処が襲われた時には紅を頼むな…コイツは、俺があの日、飛び出していった後…俺を受け入れてくれた恩人だからさ」


 あの日。


 両手を血と罪に塗れさせ。
 涙を流しながら消えた後。


「…そっか」


 悟浄は1度目を伏せてから、義兄の顔を見上げた。


「それじゃ、俺が護るわ」


 あの日。
 悟浄を護ってくれた義兄への。
 それは、精一杯のお返しだから。


 爾燕は笑った。


 幼い頃と同じ笑顔だった。


「じゃな」


 そう言って、爾燕が長安に向かった後。



 八戒が急いで作った夜食を、紅は感歎しながら食べた。

「美味い。こんな美味いのは家でも食べた事無い」
 素直に感想を述べ、紅は随分打ち解けた表情で笑った。


「これを毎日食えるのか。幸せだな、悟浄」
「だろ?」
 悟浄はウインクを返した。
 ありがとうございます、と八戒は笑って、スープのお代わりをよそった。


 この2人に、ぎこちなさがあるなんて、きっと本人達しか判らないのだろう。
 悟浄は自嘲した。
 男2人の同居なら、こんな感じが当然だ。
 以前が仲良すぎたのだ。常軌を逸している位。


 悟浄は、コーヒーを八戒が運んで来た時ですら自分から手を出さなかった。それくらい極端に『八戒に触れるかも知れない』可能性を排除している。
 触れたりしたら、きっと自分は、それをどう離して良いか判らなくなるだろうから。


「良かったら、まだ有りますから食べて下さいね」
「ありがとう。でも、爾燕が帰って来たら彼も食べるだろうから、俺はこれ位にしておく」
 紅はそう答え、きっちりと『ごちそうさま』と礼をした。
「きちんとした食事はひさしぶりだから、きっと爾燕も喜ぶ」
 そんな悲壮な事を、淡々と口にする紅に、八戒が眉を下げるのを悟浄は見た。
「…苦労してんだな、アンタ」
「…俺は仕方ない。身内の事だからな。どちらかというと身内の恥に巻き込んでしまった爾燕に悪い。しなくても良い苦労を一番掛けている」
 紅はそう言って、潔癖そうな眉を寄せた。
 それが本心だと疑い様の無い表情だった。
 真っ直ぐな、汚れの無い紅。
 それを綺麗なまま守るのが、きっと義兄が自身に課した使命なんだろうと悟浄は思う。
 義兄はそういう人だった。
「まず先に犠牲に狙われたのは、俺の妹だったんだ」
 紅は、目を伏せた。
 そんな彼の隣の椅子に、滑り込むように座って、八戒は気遣わしげにその顔を覗き込んだ。
「…無理に話さなくても良いですよ?」
 名前を明かせないと言った爾燕。
 それであれば、きっと本来そういった内情は言わないほうがいいだろう。
 しかし、紅は首を横に振った。
「いや。良いんだ。隠す事じゃない。本当は…ただ、爾燕は俺を庇ってああ言ってくれただけだ」
 聞いてくれるか?と紅は目だけを悟浄に向けた。
 無言で悟浄は酒の入ったグラスを掲げた。
「…爾燕は、俺の妹に侍女をつけて逃がした。まだ看視も無かったから、それは成功した。妹らは長安の近くに住んで、俺達と合流するのを待ってるはずだ。その計画は上手く行った。でも、その代わりに俺と爾燕は容疑者として厳しい監視を付けられた」
 紅は腕を上げた。
 手首の金管がシャラリと音を立て、それに気付いたかのように彼は腕を下ろした。
 無意識に爪を噛む寸前だったような仕草だった。
「だから、今回の脱出は…危険だった。俺は…俺は諦めていたんだ。妹さえ助かれば、俺は良かった。身内を制御しきれないせいで、殺されるんだと諦めていた。でも、爾燕が俺をあそこから出してくれたんだ。酷い怪我までして」
 すまない、悟浄、と。
 紅はそう言って深々と悟浄に頭を下げた。
「俺は、お前の兄に酷い迷惑を掛けている…お前が爾燕の弟だと知ってから、謝らなくてはと思っていた」
「別に。兄貴は好きでやってるみたいだからな」
 悟浄は口の端を上げた。
 しかし、紅は前髪を片手で握り潰した。
「…でも、俺は、ヤツに苦労しか掛けられない。此処に辿り着くまで、俺達は随分襲われた。その時だって、ヤツはまず俺を庇うんだ。俺が…俺が」


「牛魔王の息子だから」


「…!」
 悟浄は流石に息を呑んで、つい八戒を見てしまった。
 八戒も、つい悟浄を見てしまったようだった。
 随分久しぶりに意識せずに2人は視線を合わせたが、それについて感慨を抱く余裕はさすがに無かった。
 牛魔王。
 妖怪の中の大妖怪。
 その息子といえば、妖怪達に絶大なる忠誠を捧げられるカリスマのはずだ。


 義兄は随分凄い立場になってんだな、と悟浄は吐息を噛み殺した。
 何時の間にか玄奘三蔵法師の身内扱いされている自分もかなり意外な立場だが、義兄も相当だ。


 それは、名前を明かせないはずだ。
 国王よりタチが悪い。


 紅は、そんな自分の言葉に悟浄達が受けた衝撃を見もせずに、そのまま続けた。
「俺が牛魔王の息子で、俺を秘密裡に始末したら、身内らが俺の名前で、妖怪達にどんな命令も下せるから。そんな立場だから。妖怪達に混乱や分裂を起こさせない為にも、極秘で逃げようって、そんな事まで考えて、苦労しなくてはいけなくて」
「紅…兄貴は…」
「それなのに、そんな風に俺を思ってくれてるのに、俺は、俺はそんな風にしか思われない事すら苦しくて…」


「え?」


 八戒の透明な声が、小さく上がって消えた。


 紅は、前髪を握っている手を下ろした。
 しばらく黙ってから、僅かに苦笑した。
 自嘲じゃない辺りが彼らしかった。


「こんな事まで言うのは自分でもおかしいんだが。でも、爾燕の弟には聞いて欲しかったのかもしれないな」


 紅は、紫の瞳でまっすぐ悟浄を見た。
 目を逸らす理由は、紅には無いようだった。


「お前の兄は本当に良いヤツだ。だからこれは俺の只の我儘なんだ。牛魔王の息子だから。妖怪達にとって大事だから。そんな理由で護られるのに、俺は違和感を感じた…もっと言えば拒絶したんだ。俺だから護って欲しい。護って貰えるだけで本当は感謝しなければいけないのにな」
「紅…」
 悟浄は、向かいに座る、自分より小柄な青年を見詰めた。
 驚いた。
 それは、義兄にそんな思いを抱いているからではなく。
 両方が男だと言う部分でもなく。

 
 余りにはっきりと口にする、紅の態度にだった。


「…爾燕には言いましたか?」
 隣から、優しい年長者のように八戒が紅に聞いた。
 八戒に視線を合わせ、紅は緩く首を横に振った。
「いや…それどころじゃないんだ本当は。そんな事言って更に爾燕に負担を掛ける訳にはいかない」
「でも、黙っていたら苦しいでしょう?貴方が苦しんでいたらきっと爾燕も気付きますよ?」
 


 八戒の声が。
 落ち着いている、と悟浄は思った。
 悟浄はこんなにびっくりしているのに。
 八戒はいつもの八戒だった。


「言ったとして」
 紅は、八戒に向けて考え考え、口にした。


「爾燕は優しいから。きっと困る。そしてヤツの気持ちはどうであれ、きっとヤツは俺が喜ぶように答える…受け入れられれば俺は喜ぶだろう。たとえそれが、俺の為の嘘でも」


 それは。
 どんな絶望だろうと悟浄は思う。


 独りで空回りするのは。
 優しさが残酷になっていくのを感じるのは。


「…そんな事ないだろ。表面上でも、内心でも」

 
 悟浄は、紅い目を細めた。


 目の前の、真っ直ぐで綺麗な生き物。
 それには『嘘』のような穢れた物を、つけそうに無かった。

 
「お前を振るようなヤツはいないだろ」


 それは本心で。
 口にした時に悟浄は、強烈な既視感に捕らわれた。


 酒場で。
 家で。
 道端で。


 悟浄は八戒に言ったのだ。
『姉ちゃんの事は姉ちゃんの事でだ、新しい女作れよ。健全な青少年として』


 女性にいつも声を掛けられる悟浄。
 それを見るだけで中に入ってこなかった八戒。

 その事に、悟浄は僅かな使命感を感じていたのだ。
 酷い失恋をした八戒を癒さなくてはと。
 その為には定番ながら新しい恋をさせるのが1番だと。

 八戒はかわしていたが、ある日悟浄はしつこく食い下がった。
『お前なら大体の相手がOKするって』
『ダメですよ』
『何で?やっぱり姉ちゃんのせいで?』


 あの時、八戒は『振られるのが怖いから』と言った。
 悟浄は。
 笑ったのだ。
『お前を振るようなヤツはいないだろ』



 あの時。

 確か、八戒は笑った。
 笑っていた。





「僕もそう思います」
 悟浄を現実に引き戻したのは、八戒の声だった。
 八戒は、隣の紅を見ていた。
 真摯な表情で。


「僕も爾燕はそういう人じゃないと思います。それに…ダメでも1歩は進めるでしょう?」
「え?」
 紅は、僅かに首を傾げて八戒を見た。
 八戒は、いつものようにふわりと微笑んだ。


 いつものように。


 悟浄には、見せなくなった笑顔で。


「貴方はとても素敵な人です。さっき会ったばかりの僕でもそう思います。だからもし爾燕が貴方に答えなくっても、貴方をもっと大事にするヒトが現れます」
 当然のことのように言い切って、八戒は続ける。
「僕は、爾燕が答えるほうに賭けますけれど。もしも拒まれたら、そんな人は貴方から振っちゃえば良いでしょう。問題ありません」
「問題…ないのか?」


 ポカン、とした紅は、次の瞬間笑い出した。
「お前、見た目と違って破壊的なヤツだな…っ!」
 重苦しい迷いを。悪い方に傾く思考を。
 思いっきり蹴り飛ばされて、紅は笑った。


 考えても仕方ないのだと、悟ったように。


 その光景を、悟浄の目は映像として映しているだけだった。


 それは。


 それは、八戒の事ではないのか。



 ダメでも1歩は進める。
 八戒の中で、きっと悟浄との事ははっきりとけじめがつけられているのだ。もう、八戒は1歩踏み出している。
 先を見据えている。
 先に、歩いて行ってる。


 悟浄を置いて。


 不意に、また自分が望みすぎていたのを悟浄は突きつけられた。


 義母に花を持って行った時と同じだ。
 愛されたいとは、もう思わないようにしていた。それが叶わないと知っていたから。
 だから、花を見て…その花に対してだけでいいから笑って欲しかったのだ。
 自分が謙虚だと、そう悟浄は思っていた。より多くを望まない、控えめな希望だと。


 そして結果はアレだ。


 謙虚どころか、義母に笑って貰うなどというのは高望みだった。
 やっぱり悟浄は欲しがり過ぎていたのだ。
 それを自覚してなかった。それどころが自分は控えめだとそう自惚れていた。
 それが更に悟浄を傷つけた。


 その過ちをまた繰り返している。


 八戒と。
 元の友人に戻れたら、それでいいと。
 恋人なんて望まないからせめて、それだけでもと思っていた。


 それが過ぎた望みなのだ。


 八戒は、もう整理している。


 悟浄への思いも、悟浄そのものも、八戒の中では整理され、片付けられ、そして次に備えるのだ。


 次に。



 八戒は、力強く優しい眼差しで紅を見詰めている。
 その視線は、1度も斜めの悟浄には向いていない。


 見切りをつけられていた。


 その認識は、まるで大きな氷を無理矢理呑み込んだように咽喉につかえ、胸の奥を凍らせた。

  
 何かが砕ける音がする。
 紅と八戒が悟浄の方を振り仰ぐのを見て、やっと悟浄はそれが自分の幻聴じゃないと知った。


 こういう時、ガラスの割れるような音がするのが、テレビドラマの定番だもんな。


 悟浄の思考は、まだ上滑りしていた。


 

「悟浄!」


 声と共に、悟浄の視界は遮られた。
 テーブルに向いていたのに、今は窓に向いている。
 ぼんやりとそう思った悟浄は、急いで現状を把握した。
「紅該児、発見したぞ!」
「仲間に連絡だ!」
 窓を破って侵入して来た妖怪が5・6人そう叫ぶ。
 そいつらに窓を背後にしていた悟浄が気付くより前に、八戒がテーブルを飛び越えて悟浄の背中を護ったのだ。
 相手のナイフを叩き落した八戒が、片手に光を溜める。
 それを目の端に映して悟浄は八戒を片手で制した。
「紅、電気消せ!」
 紅は素早く左右を見回し、スイッチに飛びつくように消した。
「八戒、お前の気孔は目立つから、接近戦で行くぞ」
「判りました」
 悟浄が錫丈を召喚して構える。
 その背中に背を預けるように八戒が構えた。
「悟浄、八戒…!」
「お前はそこに居ろ」
 紅の呼びかけに悟浄は押し殺した声で叫んだ。
「俺達2人で充分だ」
 言い様、悟浄が腕を水平に薙ぐ。
 窓の外にいた男が声も出ずに両断された。
 その悟浄の腕を潜るように八戒が体勢を変える。
 がら空きになった悟浄の胴目掛けて剣を突き刺そうとした男が、脚を掬われて床に転がる。
「…1人も逃がさないで下さい」
「勿論」
 じゃらり、と鎖が床を這う。
 竦んだ男達が一斉に飛び掛ってくるのを、悟浄は口端を上げて待った。


 内に向かいそうな攻撃性を、外にぶつけられるのは、むしろラッキーだった。



「…強いんだな、お前ら」
 紅は、感心半分呆れ半分で呟いた。
 ほぼ一瞬だった。むしろ高まった緊張感が物足りないとボヤく感じだと悟浄は思う。
「俺も一応戦力にはなるだろうが。お前らの連携に入っても足手纏いだな」
「連携?」
 したか?と悟浄は八戒を見詰めた。
 しましたっけ?と八戒は目で答えた。
 それを見て、紅はくすぐったそうに笑った。


「本当に仲良いんだなお前ら」


 そう言われて。
 そんな事は無いのだと思って。
 そう思った一瞬で、自然だった今のお互いの呼吸が突然不自然になった。
 平気で名前を呼んだのに。
 平気で顔を見合わせたのに。
 平気で。


 悟浄は硬直した。


 自分の左腕が、八戒左の肩を抱いていた。
 平気で。
 自然に。
 自分の体がそれを求めていたのだと悟浄は理解して、情けなくなった。
 腕を回すのは無意識だったくせに。
 無意識っぽく腕を外すのは、難しかった。


 悟浄の腕は、八戒の温かさを求めていた。
 それを無理やり外して悟浄は新たな事に気付いた。
 八戒の腕が、悟浄の左胸に添えられていた。
 抱えられて、寄り掛かる体勢にさせられていたのだから仕方ない。抱えてた悟浄のせいだ。
 それなのに。


 気付いて、動揺して、そっと手を離した悟浄と違って、八戒は気付かない様子で紅と話をしている。
 僅かに悟浄より低い背だから、長い睫毛が瞬くのも、優しく微笑むのも見える。
 距離を取ろうと。そう思っていた体。
 体温。


 悟浄は、2人の会話すら聞き流して、呆然と胸に置かれた八戒の手を見詰めた。
 白い肌。
 ほっそりと長い指。
 整えられた爪。

 
 意識すればするほど、鼓動が早くなるのが自覚出来た。馬鹿みたいだと悟浄は自嘲しようとして失敗した。触れられているだけなのに体温が上がる。心臓が煩い。脈動はこめかみまで届いて、そこが脈打ってるのが判った。耳が熱くなる。
 八戒は涼しい顔で、触れている事すら忘れているのに。
 八戒は悟浄を切り捨てているから、特に意識する事も無く、その程度で済んでいるのに。
 心臓の傍に置かれた、穢れの無い手。
 このままでは。
 伝わってしまう。


 不自然に早い鼓動と共に、悟浄の醜い想いまでが。


「…」


 悟浄は、思わず八戒の手を払いのけた。
 八戒は、至近で碧の目を見開いて悟浄を映し。


 そして。


 納得した表情を浮かべた。




 悟浄はその表情を見て。
 何を言ってももう駄目だと察した。


 悟浄は赤の目を、八戒の頭上越しに部屋の奥に向けて。
 紅に向かって告げた。


「この近くにこいつらの仲間が潜んでる可能性がある。兄貴が心配だから俺行ってみるわ。お前は此処に居ろよ」
「…判った」
 護られているだけなど、歯痒いだろうに。
 そういった個人的な感情を飲み込んで、紅は頭を下げた。
「頼む」
「ああ。…八戒は紅を頼む」
「判ってます」
 八戒は、いつもの表情に戻っていて、いつものように頷いた。


 判ってないよ。


 悟浄は割られた窓から外に飛び出してそう思った。
 兄の事は口実のようなものだ。
 あの場から逃げたのだ。
 八戒の傍から。


 判ったような顔をする八戒の傍から。


 怒った顔をしてくれた方がよっぽどマシだったと、悟浄は痛切に思いながら夜道を走って行った。
純愛はどっちかってーと独紅だよね…