ほの昏い夜の果て 3
 覚えていない過去がある。
 


 自分は、雨の中、悟浄を見上げて微笑ったらしい。



 その時は実際八戒は死体寸前だったし、というか人間としては死んでいて、妖怪化したために命だけはまだ続いていたような状態で、全く覚えていない。
 大体自分がどうして妖怪になったか、それすら八戒は覚えていない。
 花喃が目の前で自殺してからの時間は、八戒にとって本当に霧に包まれたようにぼんやりと取り留めない。周囲に関心を失ってしまっていたのだろう。判り易いなあ、と今になって八戒はそんな風に思う。



 だから、あの城からどうやって悟浄の通り道まで辿り着いたのか八戒は判らない。
 大体、何で自分があの城から脱出したのかすら不明だ。
 そのまま城にいれば、きっと炎が自分を燃やしてくれただろうに。
 そうすれば、花喃の傍で死ねたのに。
 八戒は無意識で逃げ出す事を選択した。
 生き延びようと逃げたのだ。



 いかにも自分らしいと思う。その生への意地汚い執着力が。



 それでいながら、野垂れ死にしてしまうのを受け入れる自暴自棄さもまた、自分の特色で。  
 きっと、そのまま死ぬ確立が高かったと思う。
 そこに。
 悟浄が通らなければ。



 彼は、詮索しなかった。
 馴れ合う事も干渉もしなかった。
 こんなに何も聞かないでいいのか、と八戒の方が思った。
 何せ、名前すら聞いてこなかったから。


 
 それなのに、彼は毎日包帯を代えてくれた。
 ふらりと現れて横たわっている八戒の体勢を変えてくれた。
 煙草を控えてくれた。



 それは。
 不思議な距離感で、八戒は戸惑った。
 お節介ならば、もっと煩いだろう。
 人嫌いなら、ここまで細やかな心遣いはしてくれない。
 一体、どういう人なのか。



 そうやって相手を計っていた八戒だったが。そのうち納得した。



 彼は、ただ八戒にとって心地良いようにしてくれていただけだった。



 何だ。
 そうか、と八戒は思った。



 簡単だった。



 簡単だったんだ、と納得した時に、八戒は多分、生き延びて初めて暖かい気持ちになった。



 そして、霧の掛かった記憶を初めて呼び起こそうとした。



 自分が雨の中、笑った時の。
 悟浄の顔を覚えていないのが、何となく惜しかった。



 そうして。
 自分は癒されていたのだ。
 空っぽだった自分の中に、少しずつ何かが戻って来た。
 空っぽだった時にはすぐにでも天に召されて構わなかった軽い身体は、地上の生にしがみついて 重くなった。



 三蔵に連行されて。
 罰を受けて処刑されるんだと思った時。


 
 真っ先に浮かんだのが、花喃の元に逝けるのだという事ではなく、悟浄にお礼も言っていなかったという寂しい感情だった自分に、八戒はショックを受けた。



 そして。
 結局生きている八戒に、三蔵が寺での生活を許可してくれたのに。
 悟浄と暮らす事を選んだ自分が、八戒にはまたショックだった。



 けれど。
 短かった同居生活は、お互いの話を全くしなかったけれど。
 それでも悟浄の複雑さを、八戒は良く判った。
 複雑繊細に見えてとにかく真っ直ぐにしか動かない八戒よりも、実は悟浄の方がよっぽど細やかで屈折していた。
 そして、その屈折した感情を更にもう何度か折って、結局は90度くらいの歪みだけ見せている彼に興味を持った。



 街の人間は、悟浄をこぞって評した。

「軽薄」
「不真面目」
「馬鹿」

 けれど八戒にはそれらの評判は、見当違いにしか聞こえなかったのだ。



 殊更軽くみせているのは、深く沈む自分を嫌悪しているからで。
 本来であれば全てを否定して拒絶し、力に訴えるような存在になってもおかしくないのに、生来頭が良いためにそういう生き方の馬鹿馬鹿しい面まで見えてしまって選べない程だ。
 そのバランス感覚と。
 他人との絶妙な距離感と。
 それは八戒を引き付けた。


  
 人間嫌いでも、人間好きでもない。
 彼にとって、他人とは全て気を配る存在なのだ。
 酒場で適当に相対してる女性に対しても同じで、悟浄は相手が本気にならないように上手くあしらっていた。
 その見事な対応を見るのが楽しくて、八戒も酒場に行く位だった。


 
 そんなに他人に気を使うのに、捻くれているのに、悟浄は暗くは無い。
 悟浄の根本は真っ直ぐで明るい。
 それがまた面白い。



 それが判ると、悟浄の他人に対する軽い1言が、彼の中でどれだけ吟味されているかも判ったりして 八戒は更に悟浄を大物だと思った。はっきり言って最初は尊敬した。それだけ心を砕いて、でもそれは悟浄にとっては普通で、酷い事を言われたって『こっちはこんなに考えてやっているのに』などと1度も口にしなかった。それだけ悟浄には当たり前の事なのだ。そうやって他人に普通に気遣いをする事は。
 八戒には絶対に出来ない事が。



 最初は尊敬した。感心した。それから、どうして周囲の人間はこんな悟浄が判らないんだろうと憤慨した。そして。
 最後は、八戒はやはり自分勝手になる。


 
 こういう悟浄を理解しているのは、自分だけだと満足した。
 そして。
 自分だけで良い。とも思った。
 他の人間は誤解していれば良い。
 自分だけなら良い。



 そして。
 そうやって、八戒が他の人間より少しだけ深く悟浄を理解した事を、悟浄も気付いたようだった。
 どんどん、八戒の前で飾る事が無くなって行った。
 キッチンで八戒が食事の仕度をしていると、ソファーを独占してうたた寝している事があった。
 八戒がやっている事を遮って、別の事をやらせようとする事もあった。
 我儘を言う事が増えた。
 それは、悟浄は他の人間に見せない態度で。
 八戒は、特別扱いにちょっと喜んでその我儘を許した。
 甘える悟浄に甘えているような日常は居心地が良かった。
 特別だと。
 自分だけは特別扱いだと。



 ぴょこん、と八戒の中で何か小さな芽が発芽した。
 悟浄に甘えられ、腕を回され、そのたびにぴょこぴょこと小さな芽は出て来た。
 最初は発芽すら気付かなかった。その程度の芽吹きだった。 
 そして八戒はそれを完全に無視した。元々自分の内部など重きを置かない八戒だ。気にもならなかった。
 花喃が死んで、あの日の大雨に心まで流されて、荒廃しきった自分の内部に、少しは何かが生まれるのだと、それだけ思った。
 
 しかし、それは1度芽吹くと恐ろしい速さで成長した。芽が蔓になり、蔓同士が絡み合い、地下深くにまで張った根も、そう簡単には抜けなくなった。



 放置したらどうなるか、八戒は判っていたはずだった。
 でも。
 その芽は余りにも柔らかくて。
 暖かくて。
 抜き取ろうという気持ちを、どうしても八戒に起こさなかった。



 そうして。
 気が付けば、八戒の内部はもう緑一色だった。
 葉が茂るたびに、八戒の心の影も増えていった。
 その気になれば、その蔓を焼き払えると思っていたのに。
 もう、火をつけたら最後、ずっと、ずっと焼け続けると思った。



 どうして自分は、他人が明確に引ける境界線を引けないのだろうと八戒は思った。
 肉親と恋人の境界が判らなかったように。
 今度は親友と恋人の境界が引けない。



 前回は花喃も同じだった。彼女に禁忌は存在しなかった。いつものように、明るく笑って、花喃は八戒の前で服を脱いだのだ。
 今度は違う。
 花喃は、八戒と似ていた。ある意味一部だった。
 悟浄は、八戒とは全く違う。
 だから、どうして良いのか判らなかった。
 最初は、何とかなるだろうと思った。悟浄は優しいから。そういう安心があったから、苦しいのもいっそ片思いの気分を味わうスパイスに思える位八戒にも余裕があった。
 視線に不自然さが無いように抑えて、それでも悟浄と視線が合うと普通に笑って見せた。チクリとする痛みが、何だか麻痺してしまった八戒の感受性を刺激し、初めて経験する『片思い』という状況を八戒は堪能した。
 そして。
 いつからか。
 その痛みは、本物の傷みになった。
 本当に苦しくなった。
 そんなつもりはなかったのに。
 もっと、余裕を保っていたはずだったのに。
 悟浄が腕を回してくるたびに、何かを試されているようだった。嬉しくて暖かいのに痛くて泣きそうだった。それなのに振り払う事など考える事も出来なかった。
 それでも。
 それでも、八戒はこの普通の生活を壊す事はどうしても出来なかった。それだけ此処は居心地が良すぎた。それに、今までの経験から、八戒は痛みには慣れるという事を知っていた。花喃を失った事にだって慣れたのだ。幸せだった頃には想像しただけで死にそうだったのに。
 いつか。
 いつか、この痛みにも慣れると。
 八戒はそう信じた。
 それまで、慣れるまでは辛くても、慣れたらきっと今までのような楽しい生活が送れる。
 その未来を信じた。
 自分の中にあった楽観的な余裕は、その頃にはもう欠片も無かった。
 この気持ちが悟浄にバレて、何とかなるなんてもう思っていられなかった。
 隠して、何でもないように見せて、表面を取り繕って、笑顔で。
 そんな事が、悟浄相手だとどうして辛いのかと八戒は思った。
 まるで、独り深い海の中に潜っているようで。苦しくて、苦しくて。
 だから、ほんの少しだけ息継ぎをしようと思ってしまったのだった。
 海面に出て、ほんの少しだけ息をついて。
 それでまた、元のように深く潜るつもりだった。
 そんな、八戒の中に渦巻いている想いの中の、ほんの少しだけを誤魔化して吐き出したのだった。
 あの女性が告白してこなければ。
 もう少し長く潜っていられたかも知れなかったが。
 そんな、ほんの僅かな気の迷いにも似た息継ぎのはずだった。


 
 だから、多分。
 あれくらいなら大丈夫だろうと、心の何処かで計っていたのだ。
 悟浄だから。
 優しい悟浄だから。



 そして、結果はああいうものになった。
 軽率な判断は、やはり暗澹たる結果に終わるのだ。そんなの判っていたのに。今度も自分は間違えた。
 八戒は誰よりも、悟浄が鋭いと理解していたはずだった。そんな悟浄には手に取るように判ったのだろう。自分が楽になる為に荷物を悟浄に投げ渡した自分というものが。
 痛みに耐えるのに精一杯で。繕う事に気を取られて。そうやって八戒は悟浄そのものを考えている事がなくなっていた。
 自分の事だけで。
 全てを曝け出して救いを求めたら話は違ったかも知れない。けれど八戒の取った手段はもっと卑怯だった。
 真っ直ぐな悟浄が嫌うたぐいの、それは逃避だった。
 悟浄には、だからそういった全てが見えていたのだろう。
 女性に断りを入れる悟浄を、八戒は何度も見た。気を配って、無駄に深刻にせず、それで無駄な望みを抱かせない、完全な断り方をしていた。それは悟浄の誠意だった。
 その悟浄があそこまで怒り、おそこまで言った。
 それに八戒は怯えた。
 見たことも無い怒り方に怯え、そんな風にさせた自分に後悔の鋭い刃が深く突き刺さった。
 優しい悟浄を、そこまで怒らせたのは自分だった。



 それからの悟浄は、自分を律しているかのように見えた。精神のバランスの取れた悟浄は、感情のメーターが振り切れてしまった事を自制したようで、今まで通りの生活を取り戻そうとしていた。
 それでも、抑えきれない怒りが時々顔を覗かせた。
 忘れようとしているのに。
 八戒の顔を見てしまうと嫌でも思い出すかのように。


 
 その度に、悟浄はくっきりとした眉根を歪めた。
 本人は意識していないだろう繊細そうなその表情を、八戒は見逃していなかった。



 そして。
 それを見るたびに。
 変な話だが、八戒は安堵した。



 それは、悟浄の健全さを。八戒が尊敬したマトモさを現していたから。  
 悟浄は、強くて真っ直ぐで立派なままだ。
 彼は、八戒程度では変わらない。
 それは、八戒を楽にさせた。
 もう、これで良い。
 心に根を張ったモノは、枯れはしないけれど。
 それでも、もう構わない。
 花喃は彼の物だったが、失った。

 それに比べれば、彼のものにもならず、自由な悟浄を見ていられるのは幸福かもしれない。

 辛さにも、苦しさにも慣れるのではないかという八戒の予想は。
 その時とは予想していなかった方向で現実になりそうだった。


 
 悟浄を見ても。


 もう、痛くない。

 何だか、麻痺したみたいだった。

 自分は便利に出来ていると。
 八戒はそう笑った。
滅茶苦茶自己中心的ですウチのハチ。