ほの昏い夜の果て 12
 もう、駄目だと思った。




 あのとき。
 何時ものように居たたまれずに、時間を潰す為に境内の清掃などをしていた八戒は、入口から出て来る悟浄に目を奪われた。
 格好良いなんて、初めて会った時から知っていたけれど。久しぶりにきちんとした姿の悟浄は人目を強引に惹き付けるような独特の存在感でそこにいた。
 悟浄が来ているなんて知らなかったから、余計に八戒は驚きながら、箒を握り締めて、そんな悟浄を見詰めていた。
 見ているだけなら良いだろうと、そんな風に思っていた。
 だから。
 顔を上げた悟浄が八戒を見つけて、笑いかけてくれた時には本気で鼓動を早めたのだった。

 そして。
 何故だか八戒は悟浄と娼館に行く事になってしまった。

 何故だかなんて言い繕っても無駄で。八戒は悟浄に魅入られてしまっていたのだ。
 誘われたら何処にだって行こうと思って、これでは悟浄に群がる女の子たちの心理と一緒だろうと着替えながら苦笑した。着替えも悟浄のもので、八戒は緊張しながら袖を通したのだ。

 行き先が娼館だろうが何だろうが、別に八戒は良かった。
 綺麗なシルエットを強調するようなスーツに身を包んだ悟浄の横を歩けるのならば。

 はっきり言って、八戒は会話をしたかどうかも覚えていない。
 それだけ緊張したのだ。
 悟浄の存在自体に、あがっていた。

 李厘たちと会い、驚いたりもしたが、それでも八戒にとっては悟浄が自分を誘ってくれた時ほどの驚きは感じていなかった。
 今日は、もうこの記憶だけで充分だと。そう思っていた。

 これからも、こうやって悟浄を見て、そしてそれに浸っていられれば幸せだと思った。
 そうすれば、悟浄に迷惑は掛からない。
 また一緒に暮らして、そしてずっと一日悟浄を見られるのなら。
 そう、思っていたのに。



 悟浄は、兄と共に西に行くという。
 八戒も行ったから判る、あの酷く遠い国へ。
 一度行ったら、中々戻って来れない場所へ。
 悟浄の顔を見られない国へ。

 そして。

 もう、二度と。

 戻って来ないと。



 一緒に暮らそうと言ってくれたのに。
 希望を持ってしまったのに。
 その言葉を止めたくて、もう聞きたくなくて、八戒は悟浄に抱きついてしまった。
 厚みのある胸板に腕を回し、暖かい体温を感じてしまって、八戒は泣きそうになった。
 この感覚も、もう二度と味わえないのだ。
 額をつけた悟浄の胸元から、悟浄の付けている香水の香りがして、八戒は目を閉じた。
 もう駄目だ。

「八戒…離せよ」

 頭上で、困ったような鳴きそうな声がしたけれど、八戒は強く首を横に振った。
 胸元に顔を擦りつけるような感じになってしまいながら、それでも悟浄を抱き締めた。
 顔を上げられない。
 悟浄の顔が見られない。
 でも、この状態ならば何でも言えそうな気がした。

「離せない…」

 八戒の声は悟浄のスーツでくぐもった。
 悟浄の腕が上がるのを、背に回した自分の腕で八戒は察した。
 上がった悟浄の腕は、八戒に触れる寸前で止まった。
 抱き締める事も引き剥がす事も出来ないまま、宙で止まる。
 その隙に、八戒は震える唇を開いた。

「お願いですから、だから遠くになんて行かないで下さい。愛想を尽かすのは当然かもしれないけれど、でも、だって一緒に暮らせるって思っていたのに。そう言ってくれてたのに」

「え?」
 悟浄が声を上げたけれど、八戒はもう聞かなかった。
 今まで、ずっとずっと押し込めてきたモノが膨れ上がった。あの日告白して、失敗して、中途半端にガス抜きされた中途半端なモノは、失敗したからとゴミ箱に突っ込んだのに、ゴミ箱の中でも膨れ上がって蓋を弾き飛ばして主張している。
 ゴミ箱に入れたのに、それは捨てる事が出来なかった。蓋を閉めて、目を逸らして、それで忘れた気になっていた。
 でも、その気持ちはもうずっとずっと育っていたのだ。

 花喃に対する感情は真っ直ぐだった。隠さなかったし、隠すつもりも無かった。恋愛感情と言うのは正当な感情だと思っていたし、実の姉弟だからといって非難される筋合いを感じなかった。
 でも。
 その正当で純粋な思いは、破壊にしか向かわなかった。
 キリスト教徒だった花喃ならば思ったかもしれない。純粋で崇高で正当な信仰の名のもとに、異教徒を虐殺した十字軍と、八戒がまるで同じだと言う事を。
 正義を振りかざし、自分は間違っていないと思っている者が一番人を傷つけるのだ。
 そして勿論それを後悔などしない。むしろ誇らしいと思っていて。
 きっと、花喃が生きていれば悟能は姉に自慢しただろう。どれだけ姉の為に村人や妖怪を虐殺したか。苦難を乗り越える英雄を語るように。その妖怪達の事は何一つ考えずに。
 それを聞かされる姉の絶望を思う。
 きっと、花喃があそこで死んだから、八戒は自分の過ちに気付けたのだ。苦難に耐える英雄神話ならば、救った乙女が自殺などする訳が無い。自分は英雄ではないし、行いは正当とは掛け離れていた。歪んでいたのは、歪んでいたと客観出来なかった自分だった。
 花喃は、まるで救世主がそうするように、八戒の罪を被って死んだのだ。八戒に気付かせる為に。

 そんな苦すぎる失敗があったから、八戒は恋愛感情には慎重になった。ナチュラルに歪むくらいに極端な自分を知っているから、自制する事を覚えた。表に出さない事を覚え、没頭しないように心を配った。花喃が死ななければならなかったように、悟浄を追い詰めて歪める事の無いように。
 自分の恋愛は、相手を潰すだけだと判っていたから、悟浄だけはそのままでいられるようにと、そればかり思った。1度告白に失敗してからは余計にそう思った。


 その結果がこれだ。


 こんな事を、望んでいた訳ではなかった。


「だって…八戒、お前、俺の事もう嫌いだろ?」
「そんな訳ないでしょう!」

 八戒は叫んだ。酷い言い草だと判っている。そう言う風に悟浄が誤解するように仕向けたのは八戒だった。悟浄はその通りに納得しただけだ。
 それでも、八戒は首を横に振り続けた。
 何だか。
 頭に血が昇って、耳朶が熱くなって、頭がクラクラして、訳判らなさすぎて涙まで出そうだった。

「そんなに割り切れる訳ないじゃないですか!それくらいだったらずっと黙ってました!苦しくて、黙ってられなくって、だから僕は」
「だって」

 悟浄はまだ呆然と声を出した。
 腕は相変わらず半端に上がったままだった。

「だって、俺、お前に好きだって。そう言おうとしたら嫌がったじゃないか」
「だって最初は嫌いだって言ったでしょう」
「最初は、そりゃ…」
「だから!だから貴方は僕を哀れんで気持ちを歪ませたって…!」

 八戒は自分の声に興奮して、呼吸すら荒げていた。
 何だか、目尻が濡れてきた気がする。このまま俯いていれば恥かしい事になるとは思ったけれども、今顔を上げて悟浄と目を合わせる事ほど恥かしくはないだろうと思った。

「歪む…って…八戒」
「だから僕は言わなければ良かったんです。貴方は優しいからきっと僕を理解しようとして同情を好意に摩り替える。最初の気持ちの方が正しいんです」
「ちょっと待てよ八戒」
「だから!僕は貴方の手だって払ったのに。僕の想い方は重荷になるから、それを判ってたから今度は失敗しないように見守れたらいいと思ったのに、貴方も…貴方も結局はそうやって僕から離れるんですか」



「僕から離れる為に死んだ花喃のように。また僕は」




 どんな想い方をしても、独りになるのだろうか。




 そう言う前に、浮いていた悟浄の腕が凄い力で八戒に回った。
 息が止まるような抱擁に、八戒の睫毛に溜まっていた涙が1粒散った。

「…の野郎…独りで納得してんじゃねえよ!」

 唸り声に似た低い声に、八戒は総毛立った。
 怒りに掠れた声が、耳から首筋を直接焼いた。

「同情が好意?最初の気持ちが正しい?…俺の気持ちを勝手に決めんなよ!お前俺の事何だと思ってる訳?
俺の意見は聞く耳持たないのかよ!」

 腕の力は、入ったときと同様に突然抜けた。
 呆然とした八戒の両頬に大きい手が掛かり、仰向けにさせられる。
 その乱暴な動作と、まず目に入った怒りをそのまま表わすようなルビーレッドの瞳に 八戒は竦んだ。
 そんな、目も逸らせない雰囲気の中、不意に悟浄の肩が落ちる。
 吊りあがっていた眉が落ち、赤い瞳がクルリと上を向く。もう一度八戒を見て、ゆっくりとその額が八戒の肩に落ちてきた。

「あーもう…そんな顔してんなよ…反則だっての…」

 八戒は慌てて悟浄の背中に回っていた腕を上げて目元を擦った。
 あからさまに濡れていて今更ながらに赤くなる。何だか凄く無様な事を無様に叫んで無様な顔を見られた。と、冷静になって半端無く後悔した。

「あ…えっと…」

 悟浄の腕は今は八戒の両肩にあって、身体を支えている。伏せられた悟浄の顔は窺えないが、きっと呆れているだろう。
 どうしていいか判らなくなって、八戒は困ったように名前を呼んだ。

「ごじょ…」

 声は馬鹿みたいに涙声で、震えていた。
 そんな自分に本当に愛想をつかして出て行ってしまうんじゃないかと思って、八戒は悟浄の首に両腕を回した。
 此処に居て欲しかった。恥ずかしいけれど、それでも。

「あー!もう、イチイチ誘うなあ!」
 
 意味不明な叫びと共に、悟浄は顔を上げた。
 その顔は何だか不貞腐れた子供のようで。先程の怒りを露わにした肉食獣のような顔と全然違くて。いつもの悟浄で、八戒はほっとしたように吐息を洩らした。

「…天然か?天然なんだな?」

 ブツブツ呟いて悟浄はゴメンナサイと頭を下げた。

「俺も悪い。最初に怒ったのは俺だからな。何だか冷静になると俺の思ってた事も同じよーな話だったしさあ。そうだよな。俺が最初につまずいたんだから俺が怒るのはちょっと違うな。ええと…俺が怒ったのは、つまりお前が軽い気持ちで告ったからなワケ」
 何だか独りで完結しながらの言葉に、八戒はキョトンとして悟浄を見詰めた。
 そういえば腕を首にまわしたままだったけれど、今更離すのも何なので八戒はそのままにしていた。
「ちょっと笑わないで欲しいんだけどさ。俺は、お前がダメなら誤魔化そうっていう風に俺に告ったのにムカついたの。後で気付いたんだけど。俺は…ダメなら誤魔化そうって考えられなかった。ダメならっていう考え方が出来なかったんだよ。大事すぎて。判る?八戒」

 判らなかった。
 まるでそれでは、本当に大切みたいだから。

「同情が変わったんじゃねーの。俺がちょっと勇気出して素直になっただけです。判りましたか?」
「判りません」

 素直に八戒は答えた。
 悟浄は至近距離でニヤリと笑った。
 八戒がそう答えるのを待っていたような表情だった。

「じゃ、判ってもらわないとな」

 ぐい、と肩を固定され、八戒は目を瞬いた。
 そして、すぐに目を閉じた。
 その時にはもう、悟浄に唇を塞がれていて。
 柔らかく啄ばまれる感覚に、悟浄の首を掻き抱いた。
 悟浄の片手が肩から首に移り、更に深く口付けられる。
 空いた片手は、八戒の濡れた頬を拭った。
 何だか。
 判らされた気がする八戒だった。
こいつらちっともお互いをわかってませんが。まあそんなモノでしょう。恋愛なんて。