ほの昏い夜の果て 12
 靴べらが必要な靴を履くのは久しぶりだと悟浄は思って、無理に硬い革靴に脚を捩じ込んだ。
 ピカピカの黒皮の靴の上に、柔らかくスーツのズボン裾が掛かる。
 黒に近い濃いグレーの上等なスーツは、目を凝らさなければ見えない銀のピンストライプが入っていた。細い腰と長い脚を強調するようなシルエットのそのスーツは特別な日用の悟浄のお気に入りのものだった。
 それに艶の無い深いグレーのシャツを合わせて、光沢のあるシルバーグレーのネクタイと、わざわざサスペンダーで吊ったズボン。髪はまとめておいた。幾筋か頬や首に落ちているのは効果を狙っている。余りにもカッチリしているので片耳にダガーの銀ピアスをしてみた。どこから見ても完璧、と自分をおだてて悟浄は寺門に向かって脚を踏み出した。この玉砂利が靴を傷付けて汚すのが気に食わないが。
 足元に悔しげに落としていた目を、悟浄は不意に上げて、横に流した。
 何故だか自分でも判らなかったが、そこに箒を持って立っている八戒を見つけて、悟浄は苦笑した。
 無意識のうちに彼の気配を探していたらしかった。
 完全に目が合っていたので、悟浄は八戒の方に歩いた。
 もう、玉砂利は気にならなかった。
 逃げるのもどうかと顔に書いて、八戒はそんな悟浄を見詰めたが、不意にそんな表情をオールクリアする微笑みを浮かべた。

「どうしました悟浄。盛装ですね」
「紅の妹君のお迎えなんだよ」
 悟浄はくるりとターンした。足元で玉砂利が盛大に鳴ったが、気にしない事にした。
「ああ…連絡ついたんですね」
「そう。あ、そーだ、八戒も来てよ!」
 悟浄の言葉に、八戒は唖然として箒を握った。
「…何で僕が」
「説明する。着替えろよ」
 箒を引っ張られて、八戒はよろめいた。
 こんな場合でもちゃんと八戒ではなく箒を引く自分の冷静さをちょっと悟浄は誉めてやりたかった。
「着替えって…」
「俺のがまだあるから。はい、早く!!」
 悟浄は八戒を追い立てて入口に駆け込んだ。
 履く時は苦戦した革靴は、すっぽりと脱げて玄関に転がった。


「…で、向こうは妹君と侍女な訳よ」
 閉められたドアに寄り掛かって腕を組んで、悟浄は大声で中で着替える八戒に説明した。
「三蔵が長安中に声をかけて、今夜は盛大な一般参拝許可日って事になってる。客に混ざって寺院来てもらうんだけど、どっちにしても2人だけで来させる訳にいかないだろ。紅が寺院に匿われた今、残る妹の身柄を敵は狙ってる」
 三蔵から言い付かった説明を並べながら、悟浄は必要以上に大声な自分に気が付いていた。
 中で八戒が着替えているという事実は、何だかとても悟浄を動揺させた。目の前でストリップする女だって目で追わないような悟浄なのに。八戒の着替えの状況が浮かぶだけで動揺して更に声を高める始末だった。
「それで、彼女達と合流して寺院に連れて行く男が選ばれた。寺院に参拝ならそれなりの格好が必要だ。おまけにこれから行く所を考えると俺くらいしか適役いないんだよ」
「何処行くんですか」
 声が近くでして、悟浄は背中をドアから外した。
 憮然としたような、諦めたような八戒の顔がそこにあった。
 細い、と悟浄は実感した。悟浄の赤い髪を更に際立たせる柔らかいアイボリーのスーツは、膨張色だというのにやっぱり八戒は細かった。
 首元に堅苦しく締められたチョコレート色のタイは八戒の髪に合っていたけれど…緑色のタイがあれば、と悟浄は残念だった。自分には全く似合わないが、八戒の碧の目には合うだろう。凄く。
 しかし、それを差し引いても八戒のスーツ姿は完璧に見えて、悟浄はやや視線を下げた。
 一度見惚れたら、目が離せなくなりそうだった。
「聞いてますか?何処行くつもりですか」
 憮然とした八戒の声に、悟浄はやっと現実に戻った。
「娼館v」
 ガクリと八戒は項垂れた。
「大妖怪の深窓の姫君がそんなトコに居るとは思わないもんな。侍女の知恵かも知れねーケド上手いと思うぜ」
「確かに適役ですね。貴方は…」
 八戒は大きく息をついた。
「三蔵はチェリーだし悟空はガキだし僧侶が行くわけにいかねーし、紅や兄貴が外には出れないしさ」
 そう言い募りながら、三蔵がどうしてわざわざ寺院に居ない悟浄を呼び出して命令し、すぐ側にいる八戒に言いつけなかったか何となく判って口を尖らした。
 三蔵は八戒がお気に入りだからそんな仕事をさせるつもりは無いのだ。贔屓だよな、と悟浄は垂れ目の最高僧を恨むが、きっと八戒に独りで娼館に行けなんていう命令を三蔵が出したら当の悟浄が怒るのだ。
「…相手は、何処から来るか判らないからさ」
 声を低くした悟浄の雰囲気が変わった事に気付いて、八戒は顔を上げた。
「…そうですね。独りじゃ身動きが取れなくなる危険があります」
 そう言って八戒は完全に納得したようだった。
 サラリと衣擦れの音を立てて八戒は正門に向かった。
 その後を付いて行きながら、悟浄は心で謝った。

 危険に関する事は、後付けの理由だった。
 本当であれば、悟浄は八戒の気配を感じても気付かない振りで歩き続けるべきだったのだ。無意識で顔を上げて眼が合っても、手でも振って出て行くべきだった。そうやって距離を取る必要があった。
 それなのに。
 偶然に会えたその嬉しさが、悟浄を浮つかせた。
 顔を上げた時にまず碧の目が見られた事に、有頂天になったのだ。
 一緒に行動するには、口実が必要だった。悟浄は八戒を追い立てながら自分に口実がある事を喜んでいた。廊下で大声で話しながらも、その口実を説得力あるように何とか捏ねくり回していた。
 確かにそれは立派な口実だった。相手が大掛かりな組織である以上、数で攻める事も充分考えられ、もしも紅の妹の素性がバレた時には悟浄1人では対応しきれない可能性はある。
 牛魔王の愛人を中心とした妖怪達の犯した禁忌を暴き、子供に行った暴虐を広く知らせ、反撃を起こすとしても妹の身柄の確保は何より重要だった。だから悟浄の迎えは大事な使命で、独りで出来る事が限られている以上、人数を増やして用心する事は責任の一部だ。八戒と一緒の所を誰に見られても言い訳が立つ。
 そうやって言い聞かせている時点で後ろめたいのだと悟浄は判っていた。
 他人に対する言い訳ではなく、自分に対する言い訳が必要だった。
 でも。
 また革靴に脚を捩じ込み、玉砂利で汚しながら悟浄は自分が楽しんでいるのを自覚していた。
 大き目のジャケットの背中を風で膨らませながら、アイボリーのスーツの八戒が優雅に歩く。
 それが嬉しかった。
 店に行けば紅の妹も侍女もいる。帰りは4人だ。
 だから2人きりなのは行きの僅かな時間だけだと悟浄はもう1つ言い訳を思いついた。
 その言い訳をちょっと残念に思う気持ちがあるのを、悟浄は黙殺した。

 話は出来ない。何も浮かばないし、そういう雰囲気では2人とも無かった。
 それでも、黙っていたって満ち足りていた過去を悟浄は覚えていたので、別に会話なんて無くたって良いと思っていた。
 側で歩ければ。

 そう思っていられたのは、しかしほんの僅かな間だけだった。


 盛装で娼館に入る、最高に外見の良い男2人連れはとにかく目立ったが、片方が悟浄であったので町の人間は妙に納得した。
 きっと三蔵法師様が有り難くも一般参賀を許される日に、娼婦を同伴で寺に行くのだろう。寺院に反抗的な悟浄のやりそうな事だと町では言っていた。
 礼儀正しい同居人も巻き込まれて連れて行かれたのだ、とやっぱり八戒は被害者とされた。
 今回は全く間違ってないしな、と悟浄は耳聡く声を拾いながらも、町一番の娼館のクロークに片肘をついた。
 
 会話が無い事を、気詰まりに感じた自分に驚いた。
 沈黙が重いという事を、改めて悟浄は知った。過去は違かった。あの頃は何も言う必要もなければ言う事も無かった。それでも全部分かり合っていた。だが、違うのは当然なのだ。今の悟浄には言いたいことが山ほどある。喋りたい言葉が、呼びかけが何度も声になり損ねて消えた。言いたい事はたくさんあるのに、それは全て言える言葉では無かった。
 言ってはいけない事ばかり。
 飲み込んで殺した言葉の死体が悟浄と八戒の間にどんどん積み重なっていくようだった。お互い言いたいことがあるのだと悟浄は判っていたし八戒だってそうだっただろう。それでも何も言えなかった。何が言えるというのか。悟浄はもう、二度と手を払われたくなんて無かった.
 八戒に、もうあんな顔をさせたくなかった。

 そして。
 店に入った途端。八戒の気配が急速に解けた。
 クロークに肘をついて紅の妹の偽名を呼びに行かせてる悟浄の後で、八戒はやっと深呼吸をしていた。振り向かなくたって、八戒の気配を神経を尖らせて追っている悟浄には手に取るように判った。
 つまり、それは八戒が悟浄と2人きりだった時にどれだけ緊張していたかを現していた。
 悟浄と離れて、そうしてやっと八戒は張り詰めた気を緩められるのだった。
 もう、自分は。
 プレッシャーしか八戒に与えられないのだと。
 悟浄はきつく額を押さえた。
 声が聞こえたのは次の瞬間だった。

「ごっじょー」

 弾むような声と共に弾むように弾力のある体が押し付けられる。
 蜂蜜色の髪が目の前で揺れた。
「遅かったじゃーん、待ちくたびれたよ」
「この胸は、李厘か?」
 たっぷりと自分に押し付けられる膨らみを見下ろして聞くと、李厘は抱きついたまま悟浄の脚を思いっきり踏んづけた。
「ぎゃー!痛え!」
「あら、ごめんね悟浄。アンタの靴を踏んじゃったね。まあもう汚れてるし良いか」
「良く無ェ!!脚の心配しろよ!」
 ギャアギャアと騒ぐ悟浄に、申し訳無さそうに八百爾が頭を下げた。
「すみません悟浄さん、折角の一張羅を…」
 それは詫びだろうかと悟浄は思った。多分心の底から申し訳ないと思っているのだろう。追い討ちをかける内容だったとしても。
「あのなあ李厘。俺は今忙しいの!お前の相手してられないの!」
 悟浄がそう言っているのに李厘は八戒の前にスキップしてその腕を握った。
「八戒vやっぱりカッコイイわー!ね、腕組んで行こう!いいでしょ?悟浄なんか放っておいてさあ」
「李厘、ほら余り跳ねると転びますよ」
 八戒はゆったり笑うと、細い指で肩を剥き出しになるまでずり落ちた李厘のストールを戻した。
 李厘は口の端を魅惑的に上げた。
 
 何だか。
 酷い嫉妬に悟浄は拳を握り締めた。
 屈託無く八戒に触れる李厘。
 八戒に優しく名前を呼ばれ、気遣われ、綺麗な指で服を直して貰える李厘。
 それを、悟浄が与えられないそれを、ごく普通に受ける李厘。
 嫉妬は暴力的な怒りに変わり、そして瞬時に抜けた。
 怒りすら、今の悟浄の空白を満たせないのだった。
 此処に八戒を無理矢理連れて来たのは悟浄だった。自業自得だ。

「で、何処に行くんですか?寺院ですか?」
 李厘に付き合って話をする八戒に背を向けて、悟浄は娼館の階段を見詰めた。
 李厘達以降、そこからは誰も降りて来ない。
 やっぱり姫様ってのは仕度に時間が掛かるんだろうかとぼんやり悟浄は思った。
 その耳に李厘の声が届いた。
「あったりまえじゃない。兄貴に会わなきゃ」
 悟浄は、ゆっくり振り返った。
 娼婦そのものの剥き出しの肩や胸を光らせながら、李厘は楽しそうに笑った。
 その肌は良く焼けた小麦色。
 豊かな胸の前で腕を組んで、李厘は顎を上げた。
「紅兄いの所に連れて行ってくれるんでしょ?待ちくたびれたわ」

 その一瞬、悟浄は憂鬱すら吹き飛んだ。

 そして。
 顎を外したような悟浄と、さすがに目を見開く八戒に大笑いする李厘の前に、ゾロゾロと娼館の一行が降りて来た。
「おや悟浄。何してんだい間抜けな顔で」
 女将はそう言って太った身体を揺らして笑った。
「さ、李厘。八百爾。馬車を待たせちゃいけないよ。さっさと乗って行こう」
「…馬車?」
 八戒が何とか立ち直って女将の台詞を聞き止めた。
 女将は大きく頷いた。
「そうよ。何てったって三蔵様自らが罪深いアタシらの為に店中の子が乗れる馬車を用立ててくれたんだからねえ」
「三蔵が!?」
 叫ぶ悟浄の前で、李厘は爆笑した。
「そうだよ。今日は街中の娼婦が馬車で寺院に行ってお経を聞くの。イチイチ中をチェックしないほど多くの娼婦がね!」
「アイツ…わざわざ俺を行かせといて…」
 ガックリと悟浄は項垂れた。李厘がその頭をペチペチ叩く。
「ごめんね、アタシがお願いしたんだよ。最後に悟浄に会いたいって」
 悟浄は目だけ上げて、李厘にべー、っと舌を突き出した。
 李厘はホッとしたように笑った。
「…アタシはその辺のことや、最高僧様の事や、李厘達の事は良く判んないけどさ。まあ判らなくたって良いと思ってんだよ」
 女将はそう言って、李厘のストールを直した。
 さっきの八戒のような仕草だった。
「有難うマミー。アタシと八百爾ちゃんを保護してくれて」
 李厘は真顔になって女将を抱き締めた。
 小さくて丸い女将は嬉しそうに目を閉じた。
「胡散臭い小娘で、変な男に狙われてたのに隠してくれて有難う。客も取らないで泊めてくれてありがとね」
「何いってんのさ。アンタ達に客なんか取らせられないよ危なっかしくて。ウチの店のグレードが落ちるじゃないか」
 女将は笑った。
 けなしているようなその理由はウソだと悟浄も判った。
 此処は娼館で、2人は美人だ。売上の為なら働かせる方が絶対得だ。
 そして、この女将が2人を助けたのは売上の為では無かったのだろう。
 李厘はすこしだけ泣きそうに表情を歪め、しかし笑顔を浮かべて見せた。
「行こうか。みんなが待ってるよ…ほら、悟浄達も」
「あの馬車には女性だけで一杯になります」
 静かに声を出した八百爾を、目を瞬かせて李厘は見た。
「八百爾ちゃん?」
 八百爾は悟浄と八戒を等分に見て、頭を下げた。
「すみませんお2人とも。でも馬車は一杯なんです」
「いえ、僕達は歩いて帰りますから」
 八戒は手を振った。
 悟浄もそう言おうとして、ちょっと詰まった。
 また。
 あの沈黙の中、2人で歩くのだろうか。
 言えなかった言葉の死骸の中を進むのか。  
 八百爾は、視線を李厘に向けた。
 それが何だか判らないながらも、李厘は八百爾の言葉に口を出さない事にしたようだった。
 じゃね、と軽い1言だけを遺して、女将と娼館を去る。
「…今は外も混んでいます。少しゆっくりして出てらしたら良いと思います」
 悟浄は八百爾を見る為に顔を上げた。
 驚く事に、八百爾は真っ直ぐ悟浄を見ていた。
「お話でもなさっていてください。鍵は置いておきます」
 テーブルの上に金の鍵を置いて、八百爾はもう1度悟浄を見た。
 その目で、悟浄は全部判った。

 悟浄と八戒の間の不自然な緊張を彼女が知っている事。
 その事に彼女なりに心を痛めている事。
 ゆっくりと2人で話す時間をくれた事。

「…サンキュ」
 悟浄が礼を言うと、八百爾も悟浄が気付いた事が判ったのだろう、にっこりと笑った。
 純真な好意の微笑みだった。
「私達は、すぐにでも此処を発ちます」
 八百爾はそう言って、悟浄を見上げた。
「時間は、限られてるんです」
 それでは、と上品に微笑んで、八百爾はドアを閉めた。
 そのうちに車輪の音が聞こえた。
 それが聞こえなくなるまで追って、そして悟浄は八戒に向き直った。
 何だか。
 酷く静かだった。

 八百爾が馬車に乗れないと言い出した時、実は悟浄はそれを自分に対する嫉妬だと思った。
 八百爾はきっと李厘が好きで。
 その李厘は悟浄に告白したから。
 先程、八戒が李厘に紳士的な態度を取っただけで焼け石を咽喉の奥に放り込まれたような錯覚を受けた悟浄だ。
 目の前で八戒が告白したりしたらきっと相手を殺したいくらいに嫉妬する。
 一緒の馬車になど乗せたくないし、爪弾きにする事に暗い報復感すら抱くだろう。
 悟浄は多分自分ならそうすると思ったのだ。
 でも、事実は違った。
 八百爾は、ただギクシャクしている悟浄と八戒の仲を察知し、心を痛めていただけなのだ。
 そして、切っ掛けを作ろうと動いてくれた。

 情けないな、と悟浄は落ちてもいない前髪をかき上げた。
 自分はどんどん卑しい存在になっていて。周りの人間もそうだと勝手に自分の定規で計って。
 そして。

 八百爾と悟浄の間で交わされた判らない遣り取りの後で残された八戒がまた体を硬くするのとかが判ってしまったりして。

「…悪かったな」

 悟浄は額に片手を当てたまま通る声でそう詫びた。
 八戒が不思議そうに顔を上げる。
 それを視界に入れないように堪えながら、悟浄は唇を笑いの形に歪めた。

 八百爾はきっと、仲直りするようにと2人きりの場所をセッティングしてくれたのだろう。
 けれど、悟浄はもう仲直りという物自体が判らなかった。
 その代わりに、八戒に言える事だけ言おうと思った。
 優しい八百爾が、せっかく作ってくれたチャンスは、せめてそういった誠意ある行動で使わなくてはいけないだろうから。

「俺、お前に無理させっぱなしだな」
「悟浄…?」
「情けねーよな。俺さ、お前が家に戻って来た時、思ったんだぜ?俺といる時だけは肩の力抜けるようになれればいいなってさ…」
 何だか、そうやって言ってしまったら悟浄は津波のように圧し掛かって来る悲しみに抵抗できなくなってしまった。
 泣こうと思えば、簡単に泣けそうだった。

 だって、実際その願いは成功したのだ。
 確かに自分達はそういう関係になれた。
 それが今はどうだ。
 八戒を萎縮させる張本人になってしまった。
 2人で歩く事に、緊張していた八戒。
 李厘を見て、ホっとしたように笑った八戒。
 きっと。
 多分、今のこの状況も、八戒には耐え難いのだ。

「俺、バカだから相手の事が全然わかんねーのよ。ホント、今まで判んなかった」

 無理に八戒を巻き込んだ。
 自分は大丈夫だと思ったのだ。あの晩、寺院での話具合は悟浄も自画自賛する位に上出来だったと思ったから。距離感は掴めたと思った。もう馬鹿な真似はしない自信があった。

 だから八戒も安心してくれて構わないと、そんな傲慢な気分だったのだ。

 そんな事は悟浄の一方的な見解で。

 八戒に良いように考えたと思っているだけの、エゴの押し付けに過ぎなかった。

 八戒は、こんなにも迷惑なのに。
 それでも、仕事だからと来てくれたのに。

「きっと、俺は、これからもずっと、オマエを傷付ける事しか出来ないんだろうな」

 言葉にしてみて、それを実感して、悟浄は目を伏せた。
 もう、自分はそんな存在なのだ。
 隣にさえいられればいい。
 そんな事だって傲慢なのだろう。
 義母で、そんな事は学んだはずだった。

 そうして。
 もう二度と、義母の轍を踏みたいとは思わなかった。

「…俺さ、兄貴と一緒に西に行こうと思う」

 それを決めたのは、つい先程だった。

「紅は、これから奪われた物を取り戻しに戦う。きっと楽じゃないとは思う。俺が行ったって何が出来るか判んねーけど、何かは出来るかもしれないから」

 それにきっと、義兄は何も言わずに受け入れてくれるだろう。
 紅も、李厘も八百爾も、気の良い奴らだから。
 八戒の代わりになんて誰にもなれないけれど、それでも空っぽの内側を、ゆっくり埋める時間はくれそうだった。

「…西、に?」
「そう。八戒は行ったんだよな1回」

 細い声にそう返して、悟浄は目を伏せたまま額から手を外した。
 緊張の余り、タバコを抜き出す動作すら忘れていた。

「たぶん、もう帰ってこないから」

 言えた。
 これで、八戒は安心する。
 最後に、安心だけはあげられた。

 悟浄は、やっと目を上げて八戒の反応を窺った。
 が、八戒の顔を見ることは出来なかった。


 突然しがみついて来た八戒を胸で受け止め、腰をクロークの台に打っても、悟浄は痛みすら感じずに八戒の髪を眼下に見ていた。
やっとですか。