布巾を洗う水音が暗い厨房の中に響く。
何やってるんだろう、と冷静にその流れを見ながら八戒は思った。
悟空が、八戒の料理を食べたいと言った。
それから毎日、八戒は夜に仕込みをしている。
今日なんてスネ肉を12時間以上煮込んでこまめにアクを取り、今はブイヨンまで鍋いっぱいに澄んだ液体を湛えている。そのうち鍋が気になって全てを赤銅色にピカピカに磨きたて、ついでにお玉を磨き、食器やレンゲまで磨き出し、コンロのこびりつきを落とし、床に飛び散った水を気にして床を磨き、包丁を研いで布巾を漂白した。
完全に時間潰しだ。
もっと言えば逃避だ。
明日ココに来た僧は驚くだろうと八戒は思いながら、タライに手を突っ込んで布巾を絞った。
冷たい水。
それでも。
手首が熱い。
あの時。必死の形相で悟浄が掴んだ時から。あれ程配慮を忘れない悟浄が力任せに手首を握った時から。悟浄の手の熱さを八戒は覚えてしまった。覚えたというような易しいものでは無いかもしれない。焼き付けてしまった。
悟浄の熱が、手首に篭もる。紅く跡でも残っているかのように。いくら悟浄の力が強くても八戒が握られただけで跡を残すようなヤワな肌ではないのに。そう判っているのに。何度も八戒は自分の手首を見た。そしてその度に跡なんて無いと確認した。
それでも。
ずっと、八戒の手首は熱い。
悟浄の髪と目にも通じる、燃えるような熱がそのまま。
引き摺っているな、と八戒は思う。
粘着質な自分の性格は嫌という程判っていたけれど。自分は本当にしつこく引き摺る。
お陰で眠れない。部屋にいても時間を潰せないからこんな所で無意味に労働しているのだ。食事も進まない。味見をしていればもう空腹感は起こらない。
悟浄は静かなのに。
あんなに荒れていたという悟浄が乗り越えているというのに。
自分の方が引き摺っている。
そんな事ならあの時に、悟浄が駆け寄ってくれた時に僕もそうなんだと。そう言えば良かったのだ。
…考えても仕方ない事を考えても無駄だ。
八戒は勢い良く手を引き上げ、またタオルで手を拭った。
あの時に悟浄がどんなに本気だったか。
それが判らない八戒ではなかった。
あの時の悟浄は本気だった。それだけははっきりと八戒には判った。
その手の平を返したような心情の変化については全く判らなかったが。
それでも自分の対応に間違いは無かったと今でも八戒は思っている。
この間の、夜の僅かな会話で、八戒は心底安堵した。
悟浄が荒れていると聞いていたから。
それは、八戒が彼を深く傷付けた為だと直感した。
あんなバランスの取れている人をそこまで不安定にさせてしまったのだと後悔した。
でも、悟浄は穏やかに笑っていた。
やっぱり彼は強くって、八戒がつけたくらいの傷なんて自分で直すのだ。
八戒が帰って来た時には、もう戻る位に。
その強さが八戒にはとても好ましい。
救われた気分だった。
悟浄はもう落ち着いている。
そして八戒ももう落ち着いている。
満足だ。
あの時の悟浄の真剣な顔、力強い手、吐き出された言葉、全てを八戒は覚えている。
これがあれば、もう充分だ。
八戒は、己の手首を掴んだ。
悟浄が好きで。
真っ直ぐな悟浄が好きで。
自分は彼を引き摺って歪める事しか出来ないと気付いて。
そうしたら、悟浄が八戒の大好きな悟浄で居て貰う為には、八戒が離れなくてはいけなくて。
それなのに未練がましくグズグズと想っている自分だけれど。
それでも。
あれは現実に有った事だと。
その思い出だけで、八戒は自分が悟浄無しでも生きて行けると思った。
悟浄は、また同居しようと言ってくれた。
それが『今すぐ』だったらきっと、八戒も断っただろう。
でも、悟浄は猶予をくれた。
そういう優しい気遣いをしてくれる人なのだと、八戒はあの夜幸せな気分で座っていた。
そのタバコの匂いも、久しぶりだった。
悟浄がまだ。
自分を必要としてくれていると。
自分が悟浄に望まれていると。
その認識は途方もなく八戒を幸せにした。
もう、そんな事は無いだろうと思っていたから。
味わった事の無いほろ酔い気分もあって、八戒は悟浄に沢山笑いかけ、悟浄の方に身を寄せたりもした。
そして、悟浄がタバコを玩びながら、ごく細心の注意でそんな八戒から身を離すのも知った。
そんな所も優しいのだと、その時八戒は膝に額をつけて笑った。
悟浄はあの時、寺院の大門で八戒の手を掴んだ。
それなら、もう八戒に触られるのは気持ち悪いと思っている訳ではないだろう。
逆に。
きっと、八戒が酔って間違って、悟浄に触れたら嫌がると、そう思っているに違いないのだ。
八戒が悟浄の手を振り払ったから。
だから、触られたくないのだと、きっとそういう風に思って、自分から避けてくれたのだ。
悟浄は優しい。
、そして残酷だ。
まさか、そんなに気を使っている当の八戒が、悟浄に触れられたくて震えそうだと、そんな風に思っているなんて想像出来ないだろう。
勿論。知られるわけにはいかないのだが。
八戒は自分の手首に視線を落として、くるりと方向を変えると磨きたてられた厨房の扉を開けて外に出た。
夜風にでも当たって頭を冷やさないと、まだ眠れそうに無かった。
「お」
回廊に出た所で、八戒は立ち止まった。
声を発した当の人物はにこやかな顔で暗がりの中で片手を振った。
「爾燕?どうしたんですかこんな時間に」
「そっちこそ何だよ。何時だと思ってんだ?」
爾燕は片目を眇めてみせた。八戒は平気な顔で微笑む。
「明日の食事の仕込みです」
「ふーん」
爾燕は笑って視線を逸らせた。
その笑顔が、八戒の言い訳に対する当て付けじみた笑いでは無かった事と、視線を外すタイミングが抜群だった為とで、八戒は呼吸が楽になった。
こういう気の回し方は、さすが悟浄の兄だと思う。
「俺は散歩」
その爾燕の言葉に八戒は柔らかく笑った。
「こんな時間に?」
「俺が散歩したい時が適時。お前も付き合えよ」
ぐいと腕を取られて八戒は苦笑する。
八戒の方が、時間を持て余していたのを察知されたようだった。
「こんな夜中に寺院の裏庭を散歩だなんて滅多に無い体験ですねー」
「そーだよな。何だか肝試しして相手を脅かしてくっつかせた上に茂みで…って思ってるアホカップルの気分だな」
にやりと笑われて、八戒は平然と微笑み返した。
「貴方の相手に誤解されたらどうするんですか…って言いたい所ですけれど、まあ僕では眼中に無いでしょうね」
「何だよ、随分意味深じゃん」
「控えめなんです」
微笑む八戒の頭を、子供でも相手にするようにぐしゃりと爾燕は掻き回して笑った。
それが何だか新鮮で、八戒は髪を指で梳いて直しながら爾燕を見上げた。
八戒にこういう触れ方をする相手は今までいなかった。
それに八戒はちょっと安心した。
悟浄のように触れられたら、きっと熱は下がらなかっただろうから。
「一度八戒と話したかったんだよな。何だか願いが叶ったってカンジ?こんな時間になるとは思わなかったけどさ」
ポケットに両手を突っ込んで、爾燕はブラブラと歩く。
その歩みは足音を立てない。
「僕もですよ。興味津々です」
「やっぱ?ほら、俺はちっちゃい頃の悟浄しか知らないし、八戒は必要以上にデカくなってからの悟浄しか知らないだろうしな」
そうだ。
この人と歩くなら悟浄の話になるのは当然だ。
そう思いながらも八戒はそんなに気構えをしなかった。
爾燕は新鮮な空気を運んでくるような人で、息苦しかった八戒の呼吸を楽にしてくれた。
「ちっちゃかった頃の悟浄って可愛かったんでしょうねー」
普通に彼の話題を出せる事を八戒は自分で確認した。
「もう、今でも覚えてるって。目え大きくてさ、髪サラサラでさ、大きくなったら超美女になるだろうって思うようなツラでさー。まさかあんなゴツくなってるとはなー」
自分の後に居たのが妹だか弟だか忘れているような爾燕の言葉に、八戒は吹き出した。
「そーやって笑ってるけどなあ、あー本当見せたかったぜあの頃のヤツを」
爾燕は溜息をつく。どうやらかなりのブラコンなのは間違い無さそうだ。
「…紅と悟浄は似てますよね」
カーブに見せかけた直球に、爾燕は表情を全く変えなかった。
「そうだなあ。紅の方が昔の悟浄の面影があるよな」
「言ってる事訳判らないですよ貴方」
八戒はクスクスと笑った。
他人の恋路を突付いて楽しんでいるその様子に、爾燕は肘で八戒をつついた。
そして、あっさりと言った。
「…その紅がさ。俺を好きだってさ」
そう言われて、八戒は無言で頷いた。
やっと言ったのか、とちょっと嬉しかった。
爾燕だって、紅の気持ちなどとっくに判っていただろう。それを八戒が知っている事だって知っていただろう。そういう口調だった。報告にも似ていた。
「それで貴方は夜空なんて見上げてたりしたんですか」
「お前俺を苛めてる?」
またぐしゃぐしゃとリーチの長い腕が襲ってくる。触りたがるのは兄弟一緒だと八戒は思いながらそれを避けた。
「いいえ。どっちかというと凄いと思っています。尊敬ですね」
「そういう口調で言われるとあんま有り難味が…」
爾燕は肩を竦めた。
「それでどうしたのか、とかは聞かないのか」
のんびりした口調に、八戒はのんびり笑い返した。
「ええ。だって判ってますもん」
爾燕が紅に答えない訳が無い。
紅が懸念していたように同情なんかの筈がない。
爾燕が本当に、本当に紅を大事にしている事は、八戒にはずっと前から判っていた。
むしろ、紅が情熱的に爾燕を語るよりも遥かに深く紅を想っているのだろうと思う。表には出さないが、きっと。
紅が口に出さなければ、きっと黙ったままでずっと側にいて支え続けたのだろう。
自分には出来なかったと。そう八戒は思った。
「やっぱり尊敬します」
「おう。しとけ」
爾燕は嬉しそうに頷いた。
「弟が世話になったヤツに尊敬されるのって悪くないんだよな。義兄ちゃんとしては」
「世話…ですか。でも拾って貰ったのは僕の方ですからね」
「みんな世話になってんのは悟浄の方だって言ってたぜ」
八戒は笑いを途中で消した。
違う。
悟浄の方が表立って甘えていただけだった。
本当は、八戒の方が悟浄の存在に寄り掛かっていたのだけれど。
「それは、悟浄が僕を庇ってくれているからですよ」
全く仕方のないヤツだ、と悟浄は町の人に言われていた。
その分、八戒は周囲から大変だろうと同情の目で見て貰えた。
八戒の言葉に、爾燕は暫く八戒を見て、ふーん、と何だか唸った。
「気になるんですけど」
「不思議なヤツだと思っただけ」
爾燕は前に向き直ってから、続きを口にした。
「不思議でもないか。ソツなく笑って隙の無い事言うアンタが悟浄の事話す時は本気の顔すんのって」
爾燕がこちらを見ないようにしてくれた事を八戒は感謝した。
きっと今、自分は凄く怖い顔をしている。
「…結構直球派なんですね」
「そうでもないとあの城で紅を守れねーな」
爾燕は、そこでやっと八戒を見て、やっぱりくしゃりと笑った。
その笑顔は人好きのするもので、八戒は肩を竦めた。
これも爾燕の人柄だろうか。
どうも八戒の鉄壁のガードが崩れる。
「いいじゃんかよー。俺だって紅の事言ったし」
「僕の方は言うことなんて何も無いですから」
しれっとした笑顔で八戒は爾燕を見上げた。
爾燕は黒目だけを夜空に向けた。
「…オマエやっぱり強敵」
「あはは。僕ウソは得意なんですよ。特に自分に」
軽やかな声で語られるその内容のダークさに、爾燕は声を立てて笑った。
笑われて、何だか八戒は気が軽くなった。
「ウソが得意なんで、ウソの辻褄を合わせるためにまたウソつくんですよ。そうやって本当の事を自分でも判らなくするのが最終目的みたいなものですね」
「俺は、城で嘘つきのプロの女に会ってたんだけどさ」
爾燕はそう言って八戒の自虐の言葉を止めた。
「アレは本当のプロだって。そいつを監察してた俺が言うんだから間違いないけど、本物のウソのプロは自分がついたウソをあっさり忘れるんだよ。『そんな事言ったかしら』で終わり。ウソを突き通そうなんて全然思って無い」
爪先で土を蹴りながら、爾燕はそう言った。
それが、城下でも有名な紅の義母だろうかと八戒はぼんやり思った。
「本当の上に塗り重ねて隠す為にウソをつくっていうけど。そういう目的を持って冷静にウソつくなんてしないんだよ。ウソつくのはその方が都合良いから。だから言った事は忘れる。自己嫌悪なんて全く無い…自分のウソに足元掬われてるうちはまだまだプロじゃない。まだ見どころあるって事だな」
爾燕はそう言って、八戒を見てニヤリと唇を引き上げた。
それが想像外なくらいに悟浄の笑いに似ていて、八戒は珍しく目を伏せてその視線から逃れた。
「今度は直球じゃないんですね」
「ヘタなウソはやめちまえって事だよ。上手いウソならもっとやめちまえ」
腕が伸びて、八戒の髪はまたグシャグシャと掻き回された。
「…貴方みたいに強かったら、そう言えるかもしれないですけどね」
八戒は、必要以上に穏やかな声で言いながら、爾燕の腕を払いのけた。
悟浄に似た笑顔と、悟浄とは違う腕と、悟浄が言うはずも無い言葉が八戒を刺激し、その影響は何だか『怒り』という方向で噴き出した。
劣等感が、裏返ったのかもしれない。
「僕に何をけしかけてるんですか?僕が正直になって、それで貴方の弟が幸せになるとでも?」
「ああ」
爾燕はきっぱりと言ってのけた。
それに心の隅で賞賛し、でも八戒の大部分は猛反発した。
不安定だった精神のリミットが外れた音を、八戒は自分で聞いた。
「実の姉を愛して関係を持って、奪われた為に罪の無い人を大量虐殺して、それで結局目の前で死ぬのを見るだけだったような男だとしても、貴方の弟に相応しいと?」
言い切って微笑んだ八戒の壮絶な瞳は深く碧に輝いていた。
その挑戦的な表情に対し、爾燕はやっぱり表情を動かさなかった。
それどころか。
伸びてきた腕がまた髪を掻き回すのを、八戒は防御も忘れて呆然と感じていた。
何をしてるのかこの男は。
何平然と触っているのか。
これもウソの1つだと思っているのか。
口を開こうと八戒が息を吸ったタイミングで、爾燕はちょっと笑った。
「俺は実の母だったなあ。俺の場合は身体だけで愛情なんてもう全然無かったけどな」
意味が判らなかった。
ぱちり、と瞬く八戒の頭を掻き回す手を止めて、爾燕は乱れた頭をポフポフと叩いた。
「で、俺の場合は大量虐殺はして無い。俺が殺したのはその実の母親だけだ。ちっちゃい悟浄の目の前でな」
でも似てるなあ、と爾燕はまた笑った。
呆然と八戒は爾燕を見た。
それこそウソじゃないかと、そう思った。
だってこんな、真っ当な道を胸を張って歩いて来たような健全な彼が。
そんな事を。
「…そんな俺は紅には相応しくないか?まあ駄目だって言われても気にしないけどな。紅に相応しいか決めるのは紅だ。周りじゃないし、俺ですらない」
1度手を止めた爾燕は、また何度か八戒の頭を掻き回した。
そうしておいて、大人しくなってしまった八戒の目を覗き込む。
「で、まあこんな男でも紅が特別な訳だ。例えば俺はこうやってアンタの頭を撫でてるが、アンタが紅だったら、俺は触れてる間話の内容なんか聞いてられないんだよ。アンタだってそうだろ?八戒」
頭に爾燕の腕の重さを感じながら、八戒は小さく微笑んだ。
これが悟浄の腕だったら。
きっと八戒は息も出来ない。
そういう事なんだ、と。八戒は俯いて納得した。
爾燕の手は、もう1度優しく撫でてから離れていった。