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043.青の薔薇 1
 恐るべき破壊力を秘めた白い指が、紅茶のポットを保温していたキルトをそっと持ち上げた。
 チャリ、と手鎖の音が立つ。
 そのまま慣れた手つきでポッドからティーカップに赤褐色の液体を注ぐ。今日のお茶はクイーンズブレンド。独特の薫り高さがキッチンに漂う。
 ロイコペのカップをソーサーと共に銀の盆に移し、焔は隣室へと盆を片手に移動した。
 扉を抜けると正面に大きな窓。
 落花を受けて薄い桃色に染まる空が見える。
 春のほんのりと柔らかい光を受けて、彼の恋人がカウチに斜めになっていた。
 蠢惑的な湖畔の色の瞳は穏やかに手元の書物に注がれている。半分開いた窓から吹き込む風がその軽い髪先を遊ばせ、時折乱れたその髪をゆっくりと掻き上げる仕草すら美しい。 
 暫く鑑賞してしまった焔は淹れたての紅茶が冷める事に思い至って、カウチの傍の籐のテーブルに盆を置いた。
「…天、紅茶を淹れたぞ。少し休むといい」
「んー」
 生返事をした天蓬は、カップを鷲掴みにすると一息で呷った。
「っふー」
 溜息すらもオッサン臭い。ちなみに手にしているのは東スポだったりする。紅茶もロイコペも台無し。
 が、勿論焔は「優雅な口のつけ方だ…しかもあの吐息、どうしてこう一挙一動俺の心を悩ませるのだ全く罪な(以下略)」と浸っている。驚くことはない。彼の視界には都合の良い情景しか映らないのである。同人姉ちゃんと同じ装備だ。


「…静かですねー」
 お代りを求めながら天蓬はやっと新聞を置く。ポットからそっと紅茶を注ぎ、焔は頷いた。
「捲がいないからな。3人が2人になると随分寂しいものだ」
 もう、2週間以上になるか、と2人は思う。
 時折捲簾はふっと消える。何処に行くかも言わずに数週間から1月くらい居なくなるのだ。相棒である焔も、恋人である天蓬も置いて、彼は出て行く。
 最初、天蓬は彼らしくもなく動揺していたものだった。彼にすらどこか一線を引く所のある捲簾だったから、もしかしたら気持ちが冷めてもう戻って来ないのではないかと。
 3人の空間が余りにも心地よかったから、天蓬ははっきり言って怖かったのだ。
 今はもうそんな不安は無い。天蓬にも年月によって培われた自信があるし、捲簾の放浪癖ももう慣れた。


「でも僕を一人占め出来るチャンスでしょ?」
 ちらり、と殺人的な流し目を送ってやると、焔は紅茶を渡しながら天蓬の頬に軽くキスをした。
「…そうだな」
 今気付いたとでも言いそうに焔は色の違う両眼を瞬かせた。 
 一人占め出来るチャンスだというのに、焔はいつもよりは天蓬に手を出さない。紳士協定のつもりだろうか、と天蓬はちょっとむくれた。
 何だか捲簾と焔の間には強い絆があって、自分はそこには入れないような、そんな気になるのだ。
 男同士の友情には勝てないって女性が嘆くのがこれだろうか、と天蓬はちょっと的外れな事を考えた。
 天蓬をあっさり焔に預けられる捲簾と。
 彼の分も大事に天蓬を守る焔と。


「…例えば、僕と捲簾が絶体絶命のピンチだったりします」
 突然突拍子も無い仮定を述べ始める天蓬を、焔は首を傾げて…しかし従順に聞いた。
「それは余り考えつかないシチュエーションだな」
「僕も捲簾も殺されそうです。どちらか1人しか助けられないとしたら」
「天蓬」
 話の途中で、焔は凛然と言い切った。
「…でしょうね」
 仮定したものの、余りにも判り切った答えに天蓬は吐息をついて紅茶を飲む。
 例え捲簾に同じ質問をしたとしても、答えは同じだろう。きっと散々含んだ目で見つめた後での答えだろうが。
「俺はこの身よりもお前を守る。何よりも大事なのはお前だ、天蓬」
 歯の浮きそうな台詞が何故か今は聞き流せなくて、天蓬は焔には判らない程度に照れた。
 理由は明確だ。言わせたのが自分だから。聞きたかったのだ。つまりは甘えである。
 捲簾には見せない類の甘えだった。
「それに」
 天蓬の密かな可愛らしさには気付かず、焔は続ける。
「捲簾なら自力で何とかするだろうしな」


 …やっぱり勝てない気がする。


「…?どうした?何か気を悪くしたか?」
「何でもないです」
 天蓬はもうほとんど空の紅茶を飲み干した。
 いなければいないで話のタネになってムカつくヤツなのだ捲簾は。
 早く帰って来ればいいのに。天蓬は思った。





 その頃。
 当の捲簾は、下界のとある名家の居間で美女を前に昼間っから酒を飲んでいた。
 天蓬が見たら、それはそれは綺麗な微笑を浮かべられるだろう。しかも絶対目は笑わないのだ
 そんな事を考えて、ちょっと見たいかもなんて思ってしまう困ったちゃんな捲簾ではあったが、勿論これは浮気では無い。
「まあ、こちらにいらしたんですね捲簾様」
 深々と捲簾に頭を下げた美女は、どこか陰のある眼差しの女性だった。
 名は麗華というのだと、彼女は数日前に捲簾に告げた。
「…主のいない間に勝手に飲ませて貰ってるぜ。悪ィ」
 開けっ広げな笑顔を見せる捲簾につられて微笑みかけ…しかし彼女の口元は綻び切らなかった。
「娘を…助けて下さったのですもの。これではお礼にもならないわ」

 
 下界に降りてふらふらと知らない道を進み、捲簾は南方の街に流れ着いていた。
 もう夕方になっており、宿を探しながら人通りの少ない町外れを歩いていた捲簾は何かが川に流されているのを目ざとく見つけ。
 それが子供だと判った瞬間に川に飛び込んでいた。
 幸いにも子供は気を失っていて水を余り飲んでいなく、びしょ濡れのまま警察か病院を探していた彼はすぐに子供を捜す街の自警団と会うことが出来たのだった。
 その子供は町の名家である麗華の5番目の子供で、家から何時の間にかいなくなっており、街を上げて探していたらしい。
 余所者には敏感な地方の町ではあるが、そういった事情と何よりも捲簾の性格によって、暖かく迎え入れられ、麗華の家に暫く逗留していくように進められたのだった。
「琳華だけが今の私の心の支えだもの」
 麗華は寂しげに呟く。捲簾はグラスの氷に目を落とした。
 麗華は未亡人だ。
 まだ10代の半ばにならないうちに隣町から婿を取り、6人の子供にも恵まれて幸せに暮らしていたのだ。ここ数年までは。
 最初の不幸は前代の当主でもあった母の突然死だった。まだ老人と言うには若かったものの、あまり強くはなかった女性だった為に悲しみは強かったにせよ、乗り越えられるもののはずだった。 
 しかしその3日後には麗華の父が。そして子供達が順番に倒れて帰らぬ人になったのである。
 結局両親と夫と子供5人まで、麗華は次々に失ったのだ。
「…やっぱりね、お告げの通りにしようと思うの」
「…そっか」
 麗華の沈痛な表情を見て、捲簾は短く相槌を打った。
「やっぱり、呪われていたのねあの宝石は。人間の持ってはいけない物だったのよ」  
「…でも、あれは昔っからココに伝わってたんだろ?」
 捲簾は納得しかねるように反論してみるが、その勢いは無い。
 彼は自分が結局は余所者だと判っていたので。
「…っでも、私がアレを受け継いでからだもの。呪いなんて信じなかったし、夢のお告げだって未だに信じられないわ。でも、現実の方がもっと信じられない。全てがあの宝石のせいで、あれさえ手元から離せば全て解決するのなら…どんなに簡単かしら」 
 麗華はまた涙ぐむ。
 それでも、失った者は戻らないのだが。
「…綺麗な宝石だったけどな」
「ええ、私も大好きだったわ。お母様にねだって何度も見せて貰った。でもアレを天界に奉納すれば呪いは浄化されて悪夢は終わるって、夢で告げられたのだもの…」
 捲簾は気付かれないように吐息をついた。
 手が無意識に額を覆う布に当てられる。
 天界人の証でもある額紋を隠す為に、彼はこれを巻いていた。
 天界の全てから…相棒や恋人までも離れたつもりで、こんな所で捕らわれている。
 そろそろ帰るかなと思ってはいたのだが、麗華が気になって帰れやしない。


 麗華の親族が次々に死ぬのは、彼女の家に代々伝わる1つの宝石の呪いだと、麗華の夢に何度もお告げがあったのだった。
 人間が保有するには呪いが強すぎるので、それを天界に奉納するように、と。
 捲簾にしてみればかなり胡散臭い話だ。
「…天界に捧げる前に、また見ます?」
 麗華は病的に細い背中を見せて、鍵を出した。
「あ、見たい」
 酔いを全く感じさせない流れるような動きで捲簾が立ち上がる。
「…本当に貴方も好きね、この石」
 麗華は僅かに苦笑して、壁に造り付けられている金庫から1つの箱を取り出した。
 覗き込んだ捲簾の目の前で蓋が開けられる。
「…」
 彼の長い睫毛がゆっくり瞬くのを、麗華は眺めた。
 その石は親指と人差し指で作った輪とほぼ同じ大きさのダイヤで、台形をしていた。
 高さは3cmもあるだろうか。澄んだ透明な石の中央に、別の色が混入している。
 サファイアだった。
 元来ダイヤは内包物の無いものが上等とされる。これだけ大きな塊ならば周囲をカットして、内包物ゼロの石を幾つか造った方が価値があがるだろうが、この宝石はそのサファイアに特徴がある。
 偶然の賜物で、それは小さな薔薇の花に見えた。 
 これが、麗華の家に代々伝わる『青い薔薇』と呼ばれる宝石だ。


 多くの人が求めるものの、自然界には存在しない深い青の薔薇。
 それを包むのは澄んでいながらも、実はこの世の何よりも強いダイヤ。
 その奇跡の美しさは、何だか見るたびに誰かの在り様を具現しているようで。


「…恋人でも思い出しているような目をするのね」
 タイミングの良い麗華の台詞に、捲簾は思わず噎せた。
「…女の勘ってのは怖えな…」
「あら、当たり?」
 麗華は口元に手を当てた。驚いたように宝石を覗き込む。
「凄い綺麗な方なのねえ。この石で思い出せるような人なんだもの」
「美人だよ」
 悪びれずに捲簾も答える。完全な事実であるので仕方ない。  
「だから天界に持ってかれるって言うのが気に喰わねーんだよな…」
 唇を尖らせた捲簾に、珍しく麗華が噴き出した時。
 後方の扉が凄い勢いで開かれた。
 その剣幕に麗華が竦む。こちらは全く驚いた様子を見せていない捲簾が目を細めた。
 扉を開いたのは、この家の若い執事である趙亮だった。
 いつもは年令に似合わず冷静な彼が顔色を変えている。
「奥様…琳華様が…!」
 娘の名前に立ち竦んだ麗華を置いて、捲簾が床を蹴った。
 勝手知ったる長逗留で覚えた部屋へと駆け込み、苦しむ子供の小さい背を目の当たりにしてその背を擦ろうとして。
「…?」
 不意にその背に何かが浮かんだ気がした。
「琳華!!」
 狂乱する母親の声が部屋にこだまする。飛び込んできた麗華が捲簾を押しのけて我が子を掻き抱いた。
 その幼い背に、やはりぼんやりと浮かぶモノ。
 捲簾はうっすらと目を細めた。人間では適わない神族の視覚に映るのは。
(呪・・・!?)
 

 梵字を幾重にも取り巻く八卦。人間では到底成しえない程に複雑で高度な呪。
 (天界か…?)
 凍りつく捲簾の前で、麗華が号泣した。
 彼女の、最後の子供が今、息を引き取ったのだった。
 呪殺は、もちろん天界では禁呪だというのに。
「…クソ…っ」
 趙亮が吐き捨てると、麗華を見てられずに踵を返す。
 集まって来た使用人に指示を2・3出すと、足早に階段を下りていった。
「…趙」
「あの石を、奉納する準備を始める」
 強張った顔のまま、追いかけてきた捲簾に、彼はそう告げた。
「あんな呪いなんてもう御免だ。奥様は…奥様は何も悪い事などしてないのに…!」
 開いたままの金庫の中の宝石。
 金庫から出されていても、誰も奪おうなどと考えないほどコレはもう悪名高い。
 捲簾には、それが悲しい。
 優れて美しすぎる物は、確かに不吉さえ感じさせる事がある。
 しかし、そのモノはただそこにあるだけなのだ。
 …天蓬を映して、入れ込み過ぎているなと、捲簾は自覚してはいるが。
 だからこそ、不幸を呼ぶなどという誹謗は許し難かった。
「奥様にまで…万一のことがあったら…」
 手を握り締める趙亮の想いの行き先を、捲簾は随分前に悟っていた。
 趙亮は、麗華の幸せだけを願っている。
 その一途な想いが、宝石を怨む気持ちも、良く判る。
 彼らは確かに、純粋なだけなのだ。
 あの、子供の背に浮かんだ呪が、彼らを玩んでいるだけで。
「…俺、ココ出るわ」
 時折趙亮に畏怖さえ抱かせるほど鋭い瞳。
それを捲簾は彼に向けた。
「麗華もこれから色々忙しくなるだろうし、俺みたいな余所者は邪魔だろうし、気になることもあるから地元帰って調べようと思う」
「…うん」
 趙亮は懐いていた兄貴分の突然の言葉に随分幼い返答を返してしまった。
 元々、彼はただの旅人だったし。
 こんな小さな街に収まるような人ではない気がしたけれども。
「乗りかかった船だ。最後まで面倒見てやるからさ」
 最後に意味不明ながらやたら頼もしい言葉と、手馴れたウインク1つを残して、捲簾は騒ぎ始めた旧家を後にした。
 仲間の元に、帰らなくてはいけないようだった。





 そして
「ちょっと、話聞いてくれるか?」
 扉を開きながら、長い間離れていたとは思えない登場の仕方を捲簾はして。
「お帰り」
 簡単ながら端正な顔立ちを優しく緩めて焔がそう返し。
「内容によりますね」
 今日は温めの玉露を片手に、彼の『青の薔薇』は書物から目も上げずにクールに言い切った。

 新しい物語が始まる。
オリキャラ出てきました。チョイ役ですが嫌いな方スミマセン
何だか甘いですね今回