「もう一組引越しがあるみたいですね」
目敏く見つけたのは勿論八戒だった。
窓ガラスを拭きながら下の道路を眺めている。
最高階である彼らの部屋からは地上は遥か下だ。高所恐怖症であれば絶対に近づけないような窓辺で、しかし八戒は呑気に観察している。
「業者…ではないみたいですけど。ああ、でも手際良いなあ。どこの部屋なんでしょうね」
「引越し日和だもんなあ」
プカー、と悟浄は煙を吐き出す。
晴天の日曜。入居開始間もない事もあり、彼ら以外にも引越し者が居ることは充分有り得る。
悟浄達は三蔵が手配した引越し業者に全てを任せて身1つで来た。
家具の梱包や指示出しは全て八戒がやってくれたので、悟浄は本当に何もしていない。
元々ささやかな暮らしをしていたものだから、家具だってそんなに有る訳でもない。下の方の階では3世帯から5世帯に区切られているフロアを丸々占拠したアホな程広大な彼らの新居は至って閑散としていた。
「後で下の方に引越しのご挨拶をお渡しに行かないと」
まめまめしく働きながら、八戒は幸せそうに笑った。
そーね、と悟浄も何だか嬉しそうに笑った。
三蔵が見たら銃を乱射しかねない位、どう見ても新婚さんだった。
悟浄には、実際野望があった。
いくら見た目は新婚でも、彼と八戒はただの同居人である。
その関係を、少しだけ進展させたいのだ。
綺麗な新居を、愛の巣に出来るかどうかは彼の技量にかかっている。
悟浄と八戒の部屋は最上階、15階である。
彼らでワンフロア独占している為、お隣さんはいない。
取りあえずタオルの詰め合わせ箱でも持って、2人は階段を降りた。
「…あれ、引越ししてたの、ココか?」
悟浄が開け放たれている扉を見て呟いた。
まだダンボールが残っている。
「そのようですね」
八戒もちょっと首を傾げて部屋を覗き込んだ。まだ片付け中だったら、却って迷惑になるだけだ。
「もう少ししてから…」
出直しましょうか、という言葉は出てこなかった。
「あれ?」
低い声が八戒の後ろの悟浄にも聞こえた。
気配を感じさせないまま、玄関に男が現れていた。
「えっと、もしかしてご近所さん?」
男は首から掛けていたタオルで顔を拭いながら尋ねる。
その長身。鋭い瞳。長い睫毛。
ジーンズだけを履いて、生成りのデニムのエプロンを付けているが、横の隙間から垣間見える胸板の見事さまでもが、とても、とても良く似ている。
色違いであるが、悟浄に。
驚いて立ち竦む八戒を見下ろして、男も片眉を上げた。
「…うわ、すっげー似てる」
「ええ?」
それはこっちの台詞だ、と八戒は思った。
「ま、いーや。まだ汚れてるけど、良かったら上がってよ」
男はさっさと奥へ引っ込む。
「…だってよ、上がる?八戒」
平然と聞く悟浄に、八戒は肩で息をついた。
「見ました?悟浄、今の人」
「あ?見たけど?」
ひそめた声で2人は囁き合う。
「貴方にそっくりでしたね!」
「そうかあ?」
悟浄本人はそんなに自覚ないらしい。
「まあいいじゃんそんな事。取り敢えず上がらせて貰おうぜ」
八戒の肩に手を置いて、悟浄は長い足を部屋に踏み込ませた。
「おじゃましまーす」
「おう」
奥から声が返る。その声もそっくりだって言うのに。
八戒は珍しく興奮して部屋に上がった。
部屋の間取りは上と同じだった。ワンフロア。
ただ、入っている家具は一目見て良いものだと判る。
「趣味の良い棚ですね」
ソファに座って八戒は本心で誉める。
「サンキュ。俺結構こういうの凝るんだよね」
男――――捲簾と名乗った―――――は嬉しそうに笑った。
「金持ちだなあ、アンタ」
「良く言うぜ。最上階だろオマエ」
悟浄とも随分打ち解けている。お互い溶け込むのが早い性格のようだ。
「俺達…俺と、あともう1人天蓬ってのがいるんだけど、軍人だから給料はイイの。何か揉め事あったら頼って来いよ…って、アンタ達も強そうだけどな」
捲簾は口端で笑う。
軍人か、と八戒は納得した。
悟浄に似ているが、彼程色っぽくはない。
その代わり、人の良い微笑みのまま、どこか気配が鋭い。
多分、部下に慕われる兄貴分なんだろうな、と八戒は思う。
「天蓬?って、オンナの名前?」
どっちとも取れる名に、悟浄は首を傾げ、捲簾は苦笑した。
「ヤローだよヤロー。ヤロー2人のムサイ暮らしな訳。今奥で本でも読んでんじゃねーの?ったく、書斎欲しさに引っ越したんじゃねーだろーなアイツ」
最後の方は独り言のように呟いて、捲簾は真っ直ぐ八戒を見た。
「アンタにそっくり」
「え?」
そう言えば、似てると言われたっけ、と八戒は思い出した。
「貴方と悟浄も似てると思ったのに、僕とその人も似てるんですか?」
「似てるか?俺達」
「さあ。コイツはそー言うんだけど」
八戒の前で2人はそっくりな顔を同じ角度で傾げた。ほぼ同じだ。相似型というヤツだ。
だが、2人とも自分の事には無頓着らしい。
「へえ、見たいなあ、天蓬」
にやり、と悟浄が笑う。
「夢は夢のままにしとけよ。その方が幸せだぜ」
もっともらしく捲簾は告げる。
どんな人なんだろう、と八戒は思った。
同じ顔には免疫のある彼だ。何せ花喃も同じ顔だった。
この時点で八戒は既に天蓬に好意を持っている。
3人が何となく黙った時だった。
奥の扉から轟音が聞こえた。
「ッ!」
捲簾の長身がソファ2つ分を飛び越えた。凄い瞬発力だった。
「テメエ!また本崩しやがったな!」
「痛…」
余り痛そうではない声が部屋から聞こえた。
「ちょっと待て!客来てんだよ!出てくんな!」
捲簾の酷い言い様は、中の人物の臍を完全に曲げたらしい。
「人を何だと思ってるんですか!」
捲簾が扉を閉めようとするのより、中から出てくる方が早かった。
「天蓬!」
それが彼だと、直ぐに判った。
眼鏡越しに碧の瞳が客らしい2人を無感動に映す。
そのほっそりした首筋に、あからさまなキスマーク。
それがはだけられた胸元にも続く。
腹部ギリギリまで止められていないボタンのせいで、その軌跡が追えてしまう。
シヤツは黒。白い肌をわざとアピールするセレクションだ。
そして、膝ほどまでかかるシャツの下からは、生足がいっそ堂々と伸びていた。
「悟浄!?悟浄!!大丈夫ですか!?」
ソファから転げ落ちる悟浄を八戒が慌てて抱える。
捲簾は大きく溜息をついた。
「なんだよ、服着てんじゃん」
イヤ、それは着てるとは言えない。
「もう。人を露出狂みたいに」
ぷう、と膨れる天蓬、己を知れ。
「なあ天蓬、こちら上の階の悟浄と八戒。見てみろよ、八戒お前にそっくりだぜ」
ふい、と天蓬の視線が八戒の碧の瞳に絡まった。
そのまま白い足が八戒の前迄進む。
床に膝をついて悟浄を抱える八戒の前に無雑作に座り込んだ。
悟浄の目と鼻の先なのだが、勿論全く気にしていない。
「こんにちは」
大物八戒は何にも動じずに清純な微笑を浮かべた。
「初めまして」
天蓬も清純そうに微笑み返す。なんだか女子高の世界だった。
至近距離でそれを見て、悟浄の意識が飛びかける。
鼻血を出さなかっただけでも百戦錬磨の称号は守られただろう。
何せ、只今悟浄は八戒に片思い真っ最中だ。
毎晩のように八戒の『彼シャツv』姿などを想像しては、いけないいけないと振り払う、実に純な生活を送っているのである。
それが間近に実物大として迫っているのだ。今晩の妄想からは逃げられるか微妙である。
「八戒さん?」
ちょこん、と天蓬は首を傾げる。その動きで髪がサラリと流れるのも、ややずれた眼鏡が『眼鏡っ子萌えv』になるのも完全計算範囲内。
「はい。宜しくお願いします」
八戒は嬉しそうに微笑む。ナルシストとは違うが、同じ顔に無条件に親愛を抱いているらしい。
その身なりに全く配慮しない辺りが彼だ。
「ソレは?」
「コレは悟浄です」
英文にすると『it』である。モノ扱いか俺、と悟浄は世を儚んだ。
儚みながらも、天蓬の細い腿にまでキスマークが付いてるのを見つけたりしている。阿呆だ。
「御嬢ですか、可愛らしい名前ですね」
変換が違うぞ、天蓬。
「ええと、『ご不浄を悟る』って書いて悟浄、です」
他に説明方法は無いのか八戒。
2人合わせると更に破壊的な奴らである。
捲簾は我関せずで助けもしない。
『それは良い能力ですねえ』などと呟いていた天蓬はするりと立つとそんな捲簾を見据えた。
甘さの微塵も無い鋭い視線だった。
「捲簾、本が崩れました。直して下さい」
「良い度胸だなテメエ」
捲簾も強敵を前にしたかのように眼で威嚇した。
「その部屋以外は俺1人で片付けてんだよ。テメエでやりやがれ」
「は?やる訳ないでしょうこの僕が。いい加減学習しなさい」
「…スゲエ俺様態度じゃねえか…」
2人は同時に煙草を咥えると火を点けた。
八戒が煙草を吸っているようで、悟浄は珍しい物を見るような顔をして、やっと起き上がった。
「お取り込み中ですから、還りますか、悟浄」
この場の雰囲気を壊しきった声で八戒が提案する。
「あ、そう?」
ころっと優しい顔になって捲簾は笑って見せた。
「悪いな、茶も出せなくて」
「いいえ、お片づけ中に失礼しました」
丁寧にお辞儀をして八戒は悟浄を促すと玄関に向かう。
律儀に見送る捲簾にもう1度礼をすると、八戒は微笑みながら階段へ向かった。
「いい方たちですね」
どこをどう取ればそんな当たり障り無い無難な感想になるのだろう。
悟浄にしてみれば、捲簾は曲者だし、天蓬に至っては曲者所ではない。
「そーね」
取り敢えずはそう返して、悟浄は煙草に火をつけた。
あの、八戒に酷似した天蓬という男の身体中に散っていたキスマーク。
あれは、やはり捲簾の付けたモノだろうか。
…その割には2人に甘さが微塵も無かったが。
もしそうだったら
『男同士の恋愛感情』というものを全く感知しない激ニブ八戒に、良い刺激となるご近所さんか、裏目に出るか。
悟浄の懸念は現実となるのだが。
どちらになるかは、また後の話である。
結局、非常に極端な結果となるのだが。