ほの昏い夜の果て 1
 性格の不一致で別れる男女は数知れないと悟浄は思う。
 それが別れの理由になる、という事は裏を返せば性格が一致していればそれは、長く付き合う理由にもなるだろう。
 その論法は余り説得力が無いが、それでも本気でそう思う程度に、悟浄には性格が一致する相手がいた。
 
 男女という訳ではない。相手も男だ。
 そして、厳密に言うと性格が一致している訳でもない。むしろ正反対に近い。
 それでも、正反対に近くても、例えば凸凹がぴったりと重なるように、とてもしっくりくるのだ。

 相手は、悟浄のようにいかにも堅気に見えない外見ではない。むしろ気弱で真面目に見える外見だ。
 質の良い女をはべらせて、泡沫の金を稼ぐスリルを愛する悟浄と違い、洗濯物が真っ白になったり、掃除をして、風が部屋中を吹き抜けるのを感じる方が楽しいらしい。
 食事を削って眠る悟浄と、眠らなくっても三食作る相手。
 その相手は、でも内面の奥の奥の奥の方で、悟浄より喧嘩早くって虚無的でしたたかだったりして、そういう面がまた悟浄とぴったり合う。

 何せ、悟浄の髪を初対面で血の色だと言ったし。
 価値観がぴったりしてる訳で。
 何となく拾ってしまった男がそれほど一緒にいて楽しい相手だったというのは、悟浄にとってはかなりラッキーでもあり、1度は死んだと聞かされたりもしたので、彼が生きている事が素直にまず嬉しい。
 だから必然的にしょっちゅう絡むことになる。



「八戒、お腹すいた」
「八戒、オムレツ作ってよ」
「八戒、チーズ入れて。トロトロなヤツ。真ん中切ると垂れてくるヤツ。で、卵も中はトロトロで、混ざって零れるの。バター多めでケチャップは少なめ」
「八戒、サラダはレタスじゃなくって水菜が良い」



 悟浄がキッチンの椅子に後ろを向いて座って、赤い髪を後ろに結びながら次々に言っても、八戒はそのたびに肩越しに無料で見るのは勿体無いくらいの笑顔を見せて、その通りにしてくれる。
 そんな八戒が嬉しくて、悟浄も鼻歌など歌いながら、いくら結んでもこぼれて来る髪を結び続ける。
 我儘を聞いてくれる女は、実際覚え切れない位にいるけれど。
 彼女らは、悟浄が我儘を言うたびに『仕方ないわねえ』と従った。そうでなければ『従順な女』として点を稼ごうと、極端に甲斐甲斐しく動いて見せた。
 八戒には、そういう所が全く無い。
 もしかしたら、誰に対しても奉仕する事に慣れてるのかもしれないと、悟浄は思ったりもする。
 孤児院という育ちは、彼をそういう性格にしてしまったのかもしれないから。

 でも。
 八戒は飛び切りの笑顔のまま、蝶のようにヒラリと振り返り、悟浄の前に置いてあった、僅かに中身の残ったビール缶を横に押しやった。
「…」
 片手のハイライトの袋から直にタバコを咥えようとしていた悟浄は、ヘラリ、と笑った。
 八戒はその何倍も綺麗な笑顔を返した。
「…そういえば、灰皿何処だっけな…」
「右の棚の上です」
 無言で同居人を躾た八戒は、菜箸を片手にキッチンに向き直った。
 こいつの、こういう頑固で思い通りにしないと気が済まない性格ってのは、そう誰にも見せるものではないだろう、と悟浄は悦に入る。
 外面完璧な八戒だ。
 悟浄くらい気心が知れてる相手じゃなければ笑顔の無言の脅迫などはしないだろう。
 特別扱いってヤツか、と悟浄は鼻歌の続きを歌いながら嬉々として灰皿を取りに行った。
 躾は完璧だ。


 そう、こんな風に2人で暮らしてるからこそ、見えてくる面がある。
 八戒のそんな面を見たのは、悟浄と。
 きっと。
 あと1人。


 悟浄は灰皿を前に置き、タバコに火を点けた。

 
 それは仕方ない。
 大体、彼女は八戒の姉だし。身内だし。
 それに、もう居ないし。


「悟浄?」
 呼ばれて、悟浄は顔を上げた。
 キッチンで、さっきと同じく肩越しに振り返った八戒の、澄み切った碧の目に、思わず視線を下げる。
 そして、そんな自分に本気でうろたえてみる。

「…ナニ?」
「いえ。鼻歌が止まったから」
 八戒は、鋭い。
「何かこー、しみじみ一服してるからねー」
「オヤジ臭いですね」
 でも、鈍い。
 八戒は酷い一言をあっさり投げて、家事に戻った。
 うろたえるのも仕方ないな、と悟浄は自分に弁解する。
 姉の事は、八戒の傷だ。
 今はもう居なくって良かったなんて思ったりしたら、八戒にも八戒の姉ちゃんにも悪いもんな、と悟浄は煙を吐き出した。
 何だか、ホントにしみじみした一服になってしまった。

「煙を吐く音までオヤジですねー」
 変な悟浄、と八戒は背中を向けたまま言う。
 
 本当に変だな、と悟浄は思った。



 今。
 八戒の姉が生きていれば、きっと悟浄は後回しにされるだろうから。 居なくって良かったなどと、そんな事を思ってたことが八戒にバレたら、きっと嫌われる。
 そんな風に、瞬時に思考が回る方向が、何だか変だと悟浄はボーっと思う。
 
 でもまあ、仕方ない。
 八戒とは、物凄く気が合うから。
 だから気が合うままでいたいのは当然だ。
 余りにも気が合うから。
 だからなのだ。
 だから、同じ家に住んでるってのに、こうやって同じ部屋にまで入ってきてちょっかいを出すし、外に出る時も一緒に出たりするし、その時に町の人間が八戒を視線で追うのを見て優越感を感じたりするし、我儘を言ってその許容範囲を確かめようとするし。
 それは、全て八戒と気が合うからなのだ。


 気が合いすぎるってのも大変だなあ、と。
 この頃、悟浄はそんな風に考えていたりした。



 でも。
 八戒は悟浄の拾い物だったけれど。
 悟浄のものではなかったのだった。







 その夜。
 悟浄は咥えタバコで、自分の煙に目を細めながらカードをめくっていた。
 いつもの店の、いつもの位置。
 ただ、違ったのはマスターが空になった杯をいつものように満たしにきた際に、悟浄に囁いた内容だった。
「…オマエのトコの綺麗な同居人、さっき来たぜ」
 悟浄はそれを聞いて眉を上げた。
 八戒が来る事は、最近珍しくない。
 読む本が無くなったり、家事が一段落ついたり、ちょっと洒落た酒が飲みたくなったり、気が向いたりすると八戒は悟浄の勝負を覗きに来る。
 悟浄は華やかな女性をはべらかす王様のような自分を見て欲しかったけれども、八戒はこういう雰囲気を好まないだろうと思って、誘わないようにしていたりしたのだが、八戒の順応性は予想外で、気付けば平気で店に溶け込んでいた。
 それでも羽目を外したりしない辺りが八戒らしい所で、適当に女性陣をあしらいつつ、家計を考えて杯を重ねず、悟浄のカードを眺めてたりする。
 そんな事もあり、ここのマスターは八戒が来れば悟浄に知らせる。
 大体八戒も真っ直ぐ悟浄の所に来る。
 それが『さっき来た』というのはどういう事だろうか。
 悟浄の視線の訝しさに気付いて、マスターは口元を綻ばせてみせた。
「…女の子がね、3人くらいに応援されて隅の机に引っ張ってったよ。あの人にかなり夢中になってた子だったからな。綺麗な兄ちゃんだもんな」
「まあ、俺に並べる程度にはな」
 手馴れた角度で口端を上げて見せると、マスターは呆れたように踵を返してしまった。
 成る程、と悟浄はカードを机に散らす。
 今日は女の子が余り傍に来ないはずだ。そっちに回ってるのだろう。
 さっき、とマスターは言っていた。
 という事は、そう時間を掛けずに八戒はやってくるだろう。
 悟浄が煙草を灰皿に押し付けた時、八戒が横に立った。
 それを顎を上げて見上げ、悟浄は横に放って置いた上着を手に取った。
 無言で店を出る悟浄に、無言で八戒は従った。
 


「告られた?」
 店を出て、歩き始めたばかりの時に唐突に口にした悟浄に、八戒は平然と『はい』と答えた。
 彼が知っていると、悟浄の表情を見た時に察していたのだろう。
「誰?」
「…僕は知らない人でした。えっと、髪が茶色で、肩過ぎた辺りで切ってる人」
「そんな女いっぱい居るから」
 答えながら、でも悟浄は突っ込んでこれ以上聞く気は無かった。
 どんな女だって、きっとダメなのだ。
 だって、八戒には姉ちゃんがいたから。
 忘れられない女がいたから。
 告白されたらしいと匂わされたときから、悟浄はそれを断っただろうと確信していた。
 それはもう、当然のように。


 八戒はもう。
 誰も抱けないと言っていた。


「一回くらい付き合えば?」
 そう、判っていたけれど悟浄は言った。
「付き合うって…」
 八戒は困ったような顔で、中学生のように戸惑ってみせる。
「そーだよ。姉ちゃんと付き合ったみたいにさ」
「知らない人とですか?」
 八戒の答えに、悟浄は何となく納得してしまった。
 八戒が付き合ったのは、姉だ。
 それは、きっと肉親の情と近い物だったんだろう。
 肉親だったから、逆にすんなりと恋人の近さになれたのかもしれない。
「…知らないから付き合ってみるんじゃねーの?」 
「知らないのに?」
 どうも噛み合わない会話なので、悟浄は諦めた。
 他人だからこそ近付ける悟浄とは、正反対なのだろう。
「好みの女じゃ無かったのか?結局は酒場の女だし」
「…好み、っていうのは良く判りません」
「…姉ちゃんは、どんなタイプだった?ほら、顔とか…」
「二卵性にしては似ているって言われましたね」
 それじゃあ普通の女には勝ち目ないじゃないか、と悟浄は肩を落とした。
 八戒に似てる女なんて、そういてたまるか。
 悟浄は煙草を咥えながら、チラリと横に並ぶ八戒を見た。


 判りきってるのに、告白された話題を出さないのは、いくら何でも不自然だと思った。
 女の話なら、八戒の姉の話を避けて通るのも不自然すぎると思った。

 でも。
 思ったよりも八戒は淡々と話していて、悟浄はちょっと安心した。

 それでも。
 八戒の碧の瞳は、やや沈んでいる。
 長い睫毛の陰を受けて、街灯の下で黒々と光っている。
 自分を責めているような瞳。
 それは。
 生き延びて、別の人間に愛される自分に対する刃なのだろうか。
 いたたまれずに、悟浄は夜空に白い煙を吹き上げた。
 そんな事で自分を責める八戒を見ていると自分まで痛くなって、悟浄はわざとらしく八戒の首に腕を回した。
「きっとさ、オマエの姉ちゃんも弟がモテモテのオトコマエで鼻高いよな。それだけイイオトコ捕まえたんだからよ」
 だから、そんなに責めることは無いと。
 傷つくのはやめろ、と。
 そう言いたげな悟浄に、しかし八戒は小さく笑った。

「彼女を置いて生き延びてる自分を、責めてるって思いました?」

 その表情を、悟浄は腕を回したせいで間近で見た。
 自嘲の表情までも綺麗だった。
 悟能と名乗ってた頃に、良く見せた表情だった。
「そうですよね。普通だったらそう思いますよね。あれだけの被害を出して、罪の無い人を巻き込んでまで執着した人ですもんね。それが…普通ですよね」
 言葉を続ける度に、八戒の瞳が暗くなっていく。
 それが気に掛かって、悟浄は至近距離で八戒の横顔を見つめた。
 八戒は、苦しそうな表情で、しかし笑っていた。
「僕は…もっと。悟浄が思ってるよりもっと自分本位でふてぶてしいんですよ。こんな時でも…自分の事を考えてる」
 そう言って、八戒は顔を上げた。
 そう身長差の無い2人なので、真っ直ぐに視線が合ってしまい、悟浄はその碧に吸い込まれて、片手の煙草を落とした。
 合った視線に耐え切れないのは八戒も同じようで。
 折れそうに細い首を落として俯いた。

「…告白してきた女性は、勇気ありますよね。僕みたいなのには勿体無い」
 それは思いがけない話の流れで、悟浄は長い睫毛をパチリと瞬かせた。
 昔、姉ちゃんにも告られたんだろうか。
 それを思い出しているんだろうか。
 そう思う悟浄の思案顔を横目で見て、八戒は細く息をついた。
 何か緊張しているような、でもどこか投げ遣りのような、不思議な表情だった。
「さっきの彼女は、僕が断ると笑ったんです。『ダメモトで取り敢えず告白だけしようと思ったから、気分が軽くなった』って。凄いですよね。こんな勇気振り絞って、それで毅然としてみせて。強いな、って。僕はそう思ったんです。はっきり言って、羨ましかった」

 何だか。
 何だか凄く意味の深い言葉じゃないか、それは。
 悟浄は渇いた唇をそっと舐めた。
 舌をニコチンが刺して、それで初めて悟浄は自分が煙草を吸ってた事と、それを落とした事を悟った。
 でも。
 それどころじゃない。

 八戒は、動く悟浄の舌を間近で目で追って。
 そして、目を伏せた。

「悟浄」

 1度、いつものように名前を呼んで。

 八戒は、八戒らしいことに笑って謝った。

「すみません」

 その笑顔は、どうして良いか判らない時に顔に昇る類の表情だと、悟浄は知っていた。

「すいません、って…」
「すみません。悟浄」



「僕、貴方が好きです」



 本気で。
 一瞬意味が判らなかった。

 判らないままの方が良かった。


 けれど、敏い悟浄には判ってしまった。
 八戒の『好き』が。
 気の合う友人や、気心の知れた同居人に対する『好き』じゃないって事を。
 そんなの、誤解出来る余地は、八戒の表情には無かった。


 そうなのだ。
 そうなのだ、と。


 納得した途端に悟浄に沸き上がってきたのは怒りだった。
 咽喉の奥まで込み上げてきた凶暴な怒りに、悟浄は目の前が赤くなるかと思った。
 見た目よりも遥かに温厚な悟浄が、経験した事など無い、瞬間的に沸騰する怒りだった。
 怒り以外に何も無かった。


 八戒の首に回していた腕を外し、悟浄は息を吸い込んで。
 離れた悟浄に不安そうに、視線を上げた八戒の瞳の碧を見て。
 それがこんな時ですら綺麗だと思える色だったから。
 そこで、やっと悟浄は自制した。

 まさか。
 自分がこの綺麗な顔を殴ってやりたいなんて思う事があるなんて予想しなかった。


「…あのさぁ」


 けれど、出てきた声は悟浄本人も意外な位にいつもの声だった。
 感情とは切り離されているようだった。

「ジョーダンだろ」
 醒めた声。
 平坦なトーン。
 それでも、八戒はゆっくりと濃い睫毛を伏せて、顔を左右に振った。
 街灯を受けて睫毛の陰が頬に長く落ちている。それが何だか泣いている様にも見えた。
 八戒は、鈍いが鋭い。
 他人の好意的感情には鈍いくせに、それでもやっぱり鋭い。
 悟浄の爆発的な怒りを口調ではなく肌で感じ取ったのかもしれなかった。


 特に。
 気の合う悟浄だから、余計に強く感じ取ったのかもしれない。


 それはもう。
 言葉などよりもはっきりと。強く。

「…すみません」
 八戒はそう呟くと、1歩身を引いた。
「余計な事言いましたね、僕」
 言いながら、もう1歩後退する。
 先程、腕を回せた近さにいたその身体は、普通の一般的な間柄が話をする距離まで開いた。
「でも…そうですね。ちょっとスッキリしたかな。だからもう2度とバカな事は言いませんよ。そーゆーことで」
 八戒はそう言って、両手を軽く身体の後ろで繋いで、僅かに首を傾けるようにニッコリと笑った。
 いつもの、悟浄にそれ以上の追求をさせない無敵の微笑みだった。
 それはもう、いつもの通りの。
 だから、悟浄には判った。
 この表情は、用意されていたものだと。
 今の返答だって、きっと用意されていたのだろう。
 単純な悟浄の対応なんて、利口で周到な八戒には始めからきっと予測されていたのだろうから。   
 八戒は、くるりと前方を向いて、歩き出した。
 薄絹をひらめかせるような身のこなしも、その足取りもいつもの八戒だった。
 後ろを。
 悟浄が付いてくると判ってる歩調。


 その切り揃えられた白い項を見て、悟浄は頬を引き攣らせた。
 何だ。
 何なんだこれは。
 何を言い出したかと思えば、悟浄なんて全く放ったらかしで独りで納得して、いつものように澄み切った綺麗な後姿で。
 そして、何も無かったように帰るのだ。一緒に暮らしてる家に。
 それだけの事なのだろう。
 八戒にとっては。
 それだけのコトなのだ。


 悟浄は無言のまま長い足で1歩間合いを詰め、八戒のストライプのシャツの後襟を掴み上げ、無理に引き寄せた。
 突然の乱暴に流石の八戒もバランスを崩してよろける。
 尻餅を付くような失態は見せず、後ろに引いた脚で体勢を整えようとするのを、見抜いていた悟浄は今度は逆手で八戒の襟首を正面から掴んだ。
 胸倉を掴み上げられた状態になった八戒が、形の良い目を大きく見開いて悟浄を見ている。
 その碧に映る、牙を剥く獣のような自分の顔を、悟浄は見た。


「…俺はオトコだぜ?」
 今度は、声すら震えた。


 八戒は更に目を見開いた。
 形の良い口端が僅かに強張る。
 詰め寄られるなんて、きっとシュミレートしてはいなかったのだろう。


「オマエってさ、そーゆー趣味なワケ?姉ちゃん抱いてた癖にオトコもOKなワケ」
 間近の碧の目に、その時はっきりと傷つけられた心の斬撃が走ったのを、悟浄は見た。
 見て、快感すら覚えた。
 急いで数回瞬いた八戒の瞳からは、もう最初の衝撃は隠されていたが、覗き込めば波紋のように広がるその影響はあからさまだ。
 この男を傷つける事が、こんなにも容易く出来るとは思わなかった。
 自分の心情的にも、こんなに容易い。
 ついさっきまでは、そんな事自分が出来るとも思わなかったのに。

「何だよ。俺そういうつもりで家入れた訳じゃねーんだけど。ホラ、俺ってオンナ選り取りみどりじゃん?わざわざ野郎に行く必要性無いって見てて判んなかった?…っつーかさ、俺そういう風に見られてたんだ?美味そうって?そういえば『誰も抱けない』ってのは『でも抱かれるのはオッケーよ』って事だったのかよ」
 うわあ、と悟浄は笑って見せた。
 牙を剥いた獣の雰囲気のままで。

 やめろ、と自分を止める声は何処からも聞こえてこなかった。
 だって。
 こんなバカな事を言い出した八戒が悪いんだから。
 だからだ。
 こんな事、あっさり流せるはずが無い。

「…すみません」
 八戒は、また謝った。
 頬の柔らかそうな産毛すら見えるのに、人形のような印象の顔だった。
 凍りついたような。
「…黙ったままなのは卑怯だと、そう思ってしまったんです。すみません」
 口の中で誤魔化す事をせず、八戒はちゃんと謝る。
 聞きやすい声で。
 波立った心を隠そうとして失敗しながら、それでも掴みかかっている悟浄を見据えて。
 そんな毅然とした態度が、更に悟浄を嗜虐へ倒した。
「ああそうかよ。卑怯じゃなくなって良かったな八戒。それでテメエが良かったら他のヤツの事なんか気にしない性格だったよなオマエは」
「悟…」
 名前を呼ぶ事すら失敗して、八戒はいたたまれずに目を伏せた。悟浄を自分の視界から外した。
 そうやって逃げる八戒を、悟浄は初めて見た。
「俺がどう思うかなってオマエは考えないんだろ?そういうヤツだもんな。教えてやるけど俺は…もう判んねーよ。すっげえ混乱してるよ。判ってんのは、もう今まで通りにオマエに対応出来るはずはないって事だ」
 そこまで一気に言って、悟浄は八戒を突き飛ばすように離すと、くるりと彼に背を向けた。


 そして、ゾクゾクするような快感に、両手を握った。
 傷つけるためだけに吐いた言葉は、望み以上に八戒を傷つけた。
 それは昏いけれども、それなりの達成感だった。
 背中で八戒は黙っている。
 掛ける言葉を、悟浄は封じた。
 何処へ行くのか、と。それだけの言葉すら今の彼は投げられないだろう。


「…オマエが撒いた種だぜ。八戒」


 振り向きもせずにそう言い捨てて。
 悟浄は通りを右に折れていった。

 何だか。

 徒競走でダチョウに勝ったような、そんな考えもしなかった勝利感に悟浄はちょっと笑って、煙草のフィルムから新しい1本を抜き出した。






 その夜。
 最初に声を掛けてきた女の家に泊まって、寝場所と引き換えにちょっとした運動をこなして、眠る女に背を向けたまま、悟浄は闇の中床に降ろした灰皿に長い腕で灰を落としながら煙草を吸っていた。

 きっと。
 八戒だって眠れていないだろう。
 当然だ。お互い様だ。
 っていうか、悟浄は売られた喧嘩を買った気分に近い。最初にふざけた事を言ってきた八戒が悪いのであって、八戒にとっては自業自得だろう。

 悟浄を待っているだろうか。
 それは判らないが、きっと悟浄の事と自分の事を等分くらいには思ってるだろう、と悟浄は悦に入った。
 そして、ずっと後悔してるだろう。
 そんなのは当然の事だ。
 あんな事を言ったんだから、こういう展開になるって判っていただろうと悟浄は思って煙を吐く。
 大体、判りきった事なのだ。
 それとも。
 八戒はこんな展開になると予想もしてなかったんだろうか。
 それも舐められたもんだ、と悟浄は唇を尖らせる。
 でも。
 もう八戒も判っただろう。自分がどんなに取り返しのつかない事をしたか。
 自分を待っているだろうか。
 悟浄はまた考えて、跳ね起きるように毛布を剥いだ。
 灰皿に煙草をねじ消して、そのまま床に散らばった服を拾い上げる。
 熟睡している女には目もくれずに、身支度を整えると部屋を飛び出した。
 女は目を覚まして怒るだろうが、そんなのは悟浄の知った事ではない。
 思いついた事があった。

 
 八戒は、帰るとも思えない悟浄を待って家に独りでいるだろうか。
 違う。
 これでも悟浄は、八戒と滅茶苦茶気が合っていたのだ。彼の行動パターン位は読める。
 八戒は、そんな事はしない。
 悟浄を待ったりしない。
 彼は、まず自分の事を考えるだろう。
 彼に似ている双子の姉が、ボロボロになりながら助けに来てくれた弟を考えずに、自分の誇りの為に死んだように。

 
 悟浄は足元の見えない山道を駆け抜け、そして自宅のドアを開いた。
 狭い家には、廊下なんていう立派な物はない。
 開いた扉に驚いたように八戒が腰を上げたのが、すぐに目に入った。
 その八戒の手元にあるのは、ささやかな荷物。
 物を持たない八戒の、全ての荷物。


 やっぱり。
 姉と同じ思考で、出て行こうとしたのだろう。
 これ以上傷付かなくて済むように。

 
 そんなの。
 そんなの許さない。


「ただいまー。超腹減ったー」

 叫びながら部屋に入って行き、バタンと冷蔵庫を開ける。
 八戒の姿は冷蔵庫の扉に隠れた。
 悟浄の姿も、向こうからは見えない。
「今日の女がっついてやがって、メシも食わせないでベット連れ込むんだぜ。メシ無いの?ラーメンとか食いたいんだけどラーメン」
 八戒が答える隙を与えずに、悟浄は冷蔵庫の中を探る。
 扉の向こうで、八戒が困惑しているのが悟浄には手に取るように判っている。答えることも質問することも出来ず、彼はただ立ち尽くすだけだろう。
 それで良いんだ、と、女の家からの帰り道に悟浄は考えた。
 悟浄と一緒にいて八戒が気まずいのは八戒自身のせいだから。
 悟浄が知った事ではない。
「あるじゃん袋ラーメン。具は煮卵だけでいいから早く作って」
 扉から顔を上げて言うと、八戒は面白いくらいにビクリと反応し、視線を避けながら頷いた。
『はい』という返事は殆ど聞き取れなかった。
 悟浄は満足そうに笑って、深夜テレビを点けた。


「ウマ!!美味いよなあ!やっぱ空腹って最高の調味料だよなあ。あのオンナ締め悪いくせに回数ねだるからその分動かなくちゃいけなくって俺疲れてさー。あれ?八戒は食べねーの?寝る前の食事は身体に悪いから?」

 
 食事中、悟浄は前に八戒を座らせて、ずっと話し掛けた。ほとんど目を覗きこむように話し、盛大に笑った。
 最初は悟浄の気遣いなのだと安堵したように緊張を解いた八戒も、すぐに悟浄の真意に気付いて硬い顔のまま黙り込んだ。
 悟浄の話題は、オンナ相手の事ばかりだ。
 新たな方法の苛め方なだけに過ぎない。
 そう、八戒は思っているようで、それでもじっと黙って座っていた。


 実際、悟浄の思惑もそこにあったはずで。
 それでも。
 話を続けているうちに、その内容は何時もの通りの内容になっていった。
 酒場で聞いた封切り直後の映画の評判なんかを話していた頃には、悟浄の方はもう、何時もと同じ気分になっていた。
 元々、負の感情を維持する事は悟浄の得意ではない。
 最初はわざとらしく目の前に置いた空き缶灰皿も今では忘れ、食べ終わったどんぶりを脇に置いて熱弁を奮う。
「その相手役がスゲエんだって!カーチェイスとかあるんだけどさ、スゲエ角度で峠とか攻めんの。タイヤとか煙出てさ、そのシーン長いんだけど全然!飽きないんだって、こう、画面にガーーーーーって…」


 擬音と共に薙ぎ払った悟浄の長い腕が、中央の空き缶を弾いた。
 咄嗟に八戒が倒れないようにその缶を支える。
 同時に悟浄も手を伸ばしていた。

 缶を、2人の手が支える。
 八戒の手を、包むように悟浄が触れる。

 そんな接触。
 他愛の無い接触。
 そんなものは今まで数多かった。

 スキンシップの激しい悟浄は、何かしら理由をつけて長い腕を持て余すように八戒に絡めていた。

 それなのに、悟浄は中腰のままその場で固まった。
 八戒は。
 降ろしていた片手をそうっと上げると、その手で悟浄の手を握り、自分の片手の上から外した。    

 やけに白い手が、やけにゆっくりと悟浄の目に残像になって映った。

「はっか…」
「…僕、もう寝ます」
 
 八戒の表情は動かなかった。
 恐ろしく整った表情。

「おやすみなさい」



 裏切られた、と咄嗟にそんな事を思って、悟浄はすぐに否定した。

 冷たいのは。酷い事をしたのは自分だ。
 今更八戒を責める事ではない。
 大体、自分達はもう、今まで通りの気安い友人ではないのだから。
 八戒の反応は、当然なのだ。


 悟浄の態度は、そういうものだったはずだ。


 今夜の2人の間で起こったことが、陰湿だけれども喧嘩というものであるならば、悟浄はその喧嘩に完全勝利した。
 完全勝利して。
 やっと悟浄は自分の勝利がどういうものだったか知った。


 八戒の後姿は、すぐに自室に消える。
 振り向くはずが無い。
 悟浄は、どかされた手をジーンズの腰に擦り付けるようにして拭い、椅子を倒して立ち上がると、その勢いのまま床に置きっぱなしのままだった八戒の荷物を蹴飛ばした。


「クソ…」


 デニムの粗い布地でひり付くはずの手に、何故だかまだ八戒の肌の弾力が残っている。
 自分の怒りが八戒に向いているのか、自分に向いているのか、もう悟浄には判らなかった。
純愛を一番誤解しているのはシホだったね…。続きます。えっと、ちゃんとラブラブになります…。