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074.寂しいね
 階段を3段ほど踏み外したような感覚がして、実際に天蓬はほっそりした爪先を蹴り上げた。
 足元に積み上げていた既読の本が、その拍子に雪崩れを打って余計に彼の目を覚ます。
「…」
 ぼんやりと緑の目を上げて、天蓬は又眠りそうなゆっくりした瞬きを繰り返す。濃くて長い睫毛が重そうな仕草だった。
 どうやら又落ちてたらしい。
 本に当たった爪先がじんじんと疼痛を伝えてくる。末端部分は本当に痛い。冷えてたりすると尚更で、今の天蓬の足先は完全に『尚更』が適用される状態だった。
 寒い。
『お前こんなトコで寝るなよ』
 心底嫌そうな顔で自分を見る捲簾の表情が頭に浮かんで天蓬は顔を顰めると白衣のポケットから煙草を取り出した。
『1回本読み始めたら落ちるまで読むんだから、読む前に何か羽織れ。じゃなきゃちゃんとベットで読め。お前頭凄え良いのに何でそれ位判らない訳』
 うるさい。
 天蓬は大きく煙草の煙を吸い込んだ。
 甘いのにキツイその煙は、天蓬の意識をクリアにする。
 今日はその煩いのはいない。完全天蓬の天下なのだこの家は。
 だから天蓬は好きなだけ本が読める。これが自由というものだ。擬音にするなら『うふふv』といった感じの、その実非常に悪魔的な笑い声を天蓬は立てて、気絶直前まで読んでいた本を探した。
 大体本というものは『読もう』と思って読むものではないのだ。何時の間にか読んでるものなのである。捲簾の批判は的外れだ。読書に準備段階というのは有り得ない。
 あの人もまだまだ青いですね。天蓬はけろりとして捲簾をそう批評すると、脳裏で遠くを見つめて格好つけている捲簾の横顔を蹴り飛ばした。
 脳裏で捲簾が凄く嫌な顔をした。
 あんな顔を天蓬に向ける人物なんて、世界広しと言えどもあの射撃馬鹿と後は幼馴染くらいだ。
 金蝉も口煩い。天蓬を見る度に反射的に眉間に皺を寄せる。パブロフの犬みたいなものなのだからアレはもう放っておいて構わない。
 天蓬はずり落ちていた眼鏡を人差し指で引き上げた。脳裏だけでなく更に視界もクリアになる。
 笑っていれば綺麗な子なのに勿体無いと、天蓬は金蝉の事を思った。いや、あれでいて、もしかしたら取って置きの場面で綺麗に笑うのかも知れない。それはそれは効果的だろう。天蓬は思うが、金蝉がそういった駆け引きを考えられるような方向性を持ったヤツではないという事を完全に頭に入れていない。
 昔は、あれでも笑ったのだ。金髪を今の天蓬位の長さで切って、大きな紫の目で天蓬を映して、笑った。特に2人で一緒の毛布にもみくちゃになって眠ったりして、殆ど同時に目を覚ましたりすると目を合わせてどちらからともなく照れたように目を合わせて笑ったっけ。
 そんな自分と金蝉の幼い姿は想像だけで犯罪物に可愛い、と天蓬は思った。そりゃあ観世音が弄りたがるはずだ。余りに弄られた為に今、金蝉はああいう表情がデフォルトになってしまったが。
 今度一緒に寝ようって提案してみようかと天蓬は決意する。『周囲に本を積み上げるな』とか垂れ目を吊り上げて平均方向に修正しながらそうやって怒ったら、提案すれば良いのだ。
 きっと、彼は絶句して、そして幼い頃を思い出して赤面するだろう。うわ。面白い。
 そんな迷惑なことを思いながら天蓬は散らかった本の中を覗いて読みかけの本を探す。手の届く所に本があれば、続きがすぐに読める。読み終えた本を棚に戻しに行ったらその分時間がロスとなる。どうしてそういう合理的な考えが出来ないのだろうかあの幼馴染は。
 あの2人は煩い。ムカツク。いない隙に好き放題しようと天蓬はまるで今まで我慢していたような事を考えた。
 あの2人には、結局は天蓬の全てに折れる傲潤の可愛らしさを見習ってほしい。
 咥えた煙草がそろそろ短い。煙が目に入りだす。灰皿を探すが、天蓬の手の届く範囲には無いようだ。立ち上がって2歩程歩かなくてはいけない。うわ、面倒。
 床一面に半径50cmの円周がぶつからない位の密度で灰皿を置けばいいのだろうか。でもどうせ本で埋もれて見えなくなるのだ。
 天蓬の脳裏に灰皿が浮かんだ。少し重そうな縁飾りの辺りが安物では無い、でもゴテゴテと装飾的な訳では無く、無駄に高い訳でもない傲潤の執務室にある灰皿。
 今度、アレを盗もう。ちゃんと予告状を出して。天蓬は自分の思いつきに満足して立ち上がった。気分に弾みでもつけないと、立ち上がる気力が沸かないのだ。
 中腰で僅かに止まる。ずっと座っていた腰が痛い。伸びない。何だか冷えてるかもしれない。
 床にじかに座っていたからだろう。原因はすぐに洞察出来る天蓬である。ただ防衛手段を取ろうとしないだけだ。
 もしも焔がいれば。ヤツは天蓬が読書に熱中している間にクッションを背中に詰め込み、足にブランケットを掛け、肩には薄いストールでも掛けるだろう。それでコーヒーとか淹れるのだ。その匂いで天蓬が気付いて注文すればすぐに持って行き、その時は気付かなくても天蓬が言えばすぐに暖められているコーヒーが出せるように。
 その辺りは非常に重宝出来る。ただヤツも煩い。非常に煩い。他の奴らとは違った意味で煩い。
 殆ど聞き流す天蓬ではあるが、時々…本当に時々聞き逃してはいけない事も言うから、だから始末が悪い。
 そういう意味では、奴もいないという事は非常に気楽だ。天蓬は机の上の灰皿に灰を落としながら片足の爪先を反対の足の踝近くに擦り付けた。
 寒い。
 そういえば何も食べていない気がするけれど、それはまあどうでも良い。 
 


 奴らがいれば、その点についても色々と煩いだろうが。いない人間の事を配慮して態度を改めようなどという殊勝な部分は天蓬には無い。見事に皆無。



 天蓬は灰皿を掴むと、また先程の位置に座った。
 立っているより腰が楽だ。大体4つ足から2本足に移行した形態がそもそも無理があるのだ。手が使えるようになって頭脳は進化したが、重い頭を持ち上げたせいで肩も凝るし腰も凝る。どうせならこんな風にソファーとかに凭れた体勢の方が重みも分散させるし、手も使えて両得だ。次の進化がこういう方向なら良いのに。
 取りとめも無く思いながら、白い手が持ち上げた本に天蓬は覚えがあった。折れたページは気絶前まで読んでいた部分だった。
 やっと見つかった。
 天蓬は火を点けないまま煙草を咥えると、立てた腿に本を立てかけて、すぐにページをめくった。
 そのまますぐに本の世界に没頭する。
 それはきっと、帰って来た誰かが彼の状況を見て、煩く騒ぐまで続く。

寂しいなんて、一言も出ていませんが(笑)ルパン兼不二子ちゃんの一人ぼっちのお留守番。
何だか寂しい寂しいって書くより女々しいですね!!