いつものように気に入った題名の本を片手に抱えられるだけ抱えて、本屋の一番奥に置物のように治まっている老女の前に置いた。
「14520元」
 表紙を見ただけで女主人は値段を正確に計算する。この話の早さと品揃えと僕に色目を使って来ない点が、僕の行きつけの本屋になる所以だ。
 財布を取り出した僕に、しかし老女は付けたした。
「でも、いつも沢山買って貰ってるからね。14500で良いよ」
「ありがとうございます」
 初めてのお得意さん割引に僕は笑顔で礼を言った。老女も置物のような表情を少しだけ綻ばした。

「坊やの笑顔はとても良いね」

 青二才扱いされてしまった。
 まあ、割引御礼も兼ねて苦笑するだけにして、包みを受け取る。枯れ木のような腕を延ばして、老女は続けた。
「社交辞令ですらそれだけ良いんだから、坊やは優しい子なんだろうね」
 …人畜無害そうな笑顔で、結構凄い事言われてしまった。褒めてるように聞かせながら本人に面と向かって社交辞令はないだろう社交辞令は。
「私も今年で八十になるからね。人を見る目も養われたさ」
 僕よりも猫背の、小さい老女はそう言って僕に釣を渡した。



 ゲートを出てすぐに、彼に見つかった。

「この不良元帥。また無断で下界に降りたのかよ」
「人の事言えますか無法大将。ここで会うって事は貴方もでしょう」

 違いないな、と彼は笑う。初めて会ったときと同じ笑顔で。
 あの老女が見たら、なんて言うか、ちょっと考えた。

 僕は、最初その笑顔に驚いたのだ。そして少し感動した。彼は華々しい経歴の軍人で。つまり汚い世の中の仕組みとか目の前で見せつけられる事も多く、相手を傷付けて生き延びる商売で。そんな中では醒めた顔をして、自嘲的に笑う奴になって行ってもおかしくない。馬鹿に偉ぶるか、異常に卑屈になるかその2択がせいぜいで、つまり所詮軍人なんて異常者の集団なのだ。僕を含めて。
 それなのに、彼は自然体だった。なんて表裏のない笑顔なんだと思った。
 その笑顔が好きになった。笑顔以外も好きになるまで、時間が掛かったかどうか。


 その第一印象は間違ってなかった。
 僕は自然と肩を並べて歩いている男に視線を向けないように気を配りつつ、煙草に火を付けた。


 彼には裏がなかった。

 でも、表もなかったのだ。


 僕は下界の老女よりも、実際遥かに長く生きているけれど。
 人を見る目は全然養われていなかった。


 彼の笑顔は汚れていない。
 何も。
 彼は何も見ないから。
 だから汚れる事が無いのだと。
 そんな嘘みたいな事実を、見抜けるはずもなかった。
 僕は馬鹿だ。
 すべてが一人相撲だ。


「何難しい顔してんだよ」
 長い指が、隙だらけの僕の顔に延びる。
 そんな接触も彼には意味のある行動じゃない。
 僕が振り払っても、だから全くどうでも良い顔をしている。
「何だと思います?」
 試しに尋ねてみると、さあ、と気の無い返事が予想通りに返って来た。
「俺が判る訳無いっしょ」
 違う。


判ろうともしないんだ。

彼は僕の事を考えた事なんて無い。

思わず隣に目を向けると、そこにはいつもの表も裏も嘘も中身もない、綺麗な笑顔があった。

まだ。

すべて判ってて、まだこの笑顔を好きだと思う自分が一番馬鹿だ。