正義や常識に何の意味も見いだせなかったのはこの世界が倦んでいるからだ、そう思っているのは自分だけだと思っていた。
 この男の目を見るまで。

 
 意識が浮上して一番初めにした事は自分の状態を冷静に把握する事だった。
 天蓬にしてみれば、屈辱以外の何者でも無い状況であるにはあったのだが。
 指先からゆっくりと力を入れて腕を持ち上げる。
 足をほんの少し身じろがせると、こちらも動いた。
 目が見えにくいのは眼鏡が無いからだろう、自分の身体機能を次々と分析しているから思考も正常に機能している。


 ゆっくりと首を横に倒すと、一応上司にあたる男が仏調面をして立っていた。
『なんて顔してるんですか』
 と言ったつもりが音にならない。
 おや?と眉をしかめると目の前の男がゴソゴソとポケットから取り出した紙を顔の前にかざした。
『爆音で耳やられて暫く聞こえない』
 何の事は無い自分の声が聞こえ無かっただけのようだ。
 ああ、そういえばと意識が途切れる前の事を思い出す。
『1日経ってる。結構直情。』
 即座に次の紙を差し出されて用意の良さに思わず笑った。
 肩をすくめて見下ろす男の顔がぼやけていて表情がはっきり見えない。


 逃げ遅れた馬鹿な新入りの尻拭いなど普段だったらやろうとすら思わなかったけれど。
   
 捲廉が自分の目の前でソレを平気でやるのが嫌だったのが半分。

 もう半分は、本当は…。

 耳の事も運ばれて寝込んだ事も多少計算外だったけれど、このくらいなら1週間もすれば完治する。
 あの瞬間捲廉は自分の名前を呼んだのだろうか?
 あの新入りの名前を呼ぶのとは違う色をした声で?
 そんな事は有り得ないと天蓬は知っていたけれど、それでも試したかった。
 卑怯な方法で構わない。
 今なら何を言われても聞こえない。
 聞かなくて済む。


 自分の言葉さえ聞こえない、この無音の世界にひきずり落としても、名前を呼んで欲しかった等と言えるわけがない。
 天蓬のプライドにかけて。
「あの時、僕の事呼んだでしょう?」
 見上げた男は片眉を上げるとまた新しい紙を取り出し天蓬に握らせた。
    
『お前が居ないと決裁がおりない。早く戻ってこい』
 
応えず、ポンと軽く布団を叩いて背中を向けた男に、天蓬は嘲笑いが止まらなくなった。





 誰かと同じ何かなんて欲しく無いのに。